禅の悟りとは 脳との関係 ここに最終回答がある。

知性の限界 悟ると聖人になる? 悟りと脳 (悟りへの方向) 大悟徹底とは何か 悟りと、日常生活との関係 普通人も悟る 必要があるか
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「悟りと脳(悟りへの方向)」  h30-5-17 
「普通人も悟る必要があるか」  h30- 4-25
「知性の限界」         h29-12-13

禅の悟りとは何か?

 禅の悟りとは何か、その最終回答がここにある。
 大言壮語しているようにとられるのも当然だが、最後まで読めばそうでも無いことに気付かれると確信しております。

 禅の悟りとは何か、脳との関係は、また大悟徹底とは何かについて、抽象論ではなく、現実の世界との関係で脳科学も含めて徹底的に説明する。
 どうやれば悟りを開くことが出来るか、その方法を説明し、さらに偽者をどう見分けるかにも言及する。

 巷には、スピリチュアルとか、悟りとか、禅と脳科学とか、人の精神に関係する話が多数飛び交っている。その殆どは、経典の言葉の解釈に終始しているか、愛とか善とか道徳的な話しをしているか、一瞥覚醒など自己の経験を一方的に述べていることが大半である。
 或いは、悟りを開いたとするお坊さんや在家の人も時々おられる。

 それらは玉石混交だが、そのような色々なステージに居る人々を視野に入れて、脳との関係も含めて、悟りについて徹底解説する。

 悟りとは、道徳では無く、また、残念ながら、雲の上の崇高な存在を信じて拝むようなよくある宗教でもない。ましてや人生処世術でもなく、それは自己を含めてこの世界の真実の姿を捉えるものである。
 このサイトに来られるような人なら概ね気付いておられると思う。

 なお、悟りと脳との関係(悟りの存在する方向)をズバリ知りたい人は、読み飛ばして悟りと脳との関係のページを読んで貰ってもかまわない。

 更には、そもそも一般人が悟りを開かなければならないかについても言及する。
 その点にこそ興味があるという人は、読み飛ばして最終ページ(普通人でも悟る必要があるか?)だけ読んで貰っても差し支えない。

 なお筆者については、その最終ページ(普通人でも悟る必要があるか?)の末尾に少し触れている。

 分かり易いように対話形式を採用した。

    本ページの要約
 *** 悟りとは、真実の自分やこの世の真実の姿が分かること。しかし、そのような真実の姿は、残念ながら言葉・概念・観念・思考等の知性では分からない。

 その理由は、常に変化する森羅万象に対して、一定不変の固定化が本質である言葉や概念は無力だからである。

 また、言葉の解釈は、その解釈する個々の人の脳の記憶や勉強の範囲から、1mmたりとも出ることが出来ないからである。

 従って、経典を百万巻を読んでも、或いは偉い人や悟りを開いた人の話を一万回聞いても、真実を把握することは絶対に不可能である。

 このことは極めて重要な点であり、
悟りの存在する方向を示す生命線である。
 間違った方向へ努力をしてしまうと、どんな苦しい修行を積んでも無駄な歳月ということになってしまう。ま、無駄な歳月で終わるならまだしも、心の病にでもなれば一体全体何をやっているのかということになりかねない。肝に銘じるべきである。

 なお、同じくらい重要なこととして、普通の人がどうしても悟らなければならないのか?という問題がある。その回答は
最終ページで。 ***


区切り線

 ある青年(普通の人)が禅寺の老師(大悟した人)を訪ねた時のお話し。

青年 「この辺りは空気が澄んでいて気持ちが良いですね。」
老師 「ああ。で、何をしにこんな山奥まで来られたのかな?」
青年 「早速で済みませんが、悟りとは何か、つまり本来の自分の姿を、そしてこの世界の真実の姿をお教え頂けると聞き、はるばる訪ねて来ました。」
老師 「無理じゃ。帰りなさい。」
青年 「そこのところを一つ何とか。」
老師 「どうせ冷やかし半分だろ。帰りなさい。」
青年 「これまで色々な方を訪問して、老師様に辿りついたのです。どうか御願いします。」
老師 「うーん。見たところ本気そうだな。せっかく来られたのだからそれでは話そうか。」
老師 「この世界の真実の姿や真実の自分とは、知性や言葉(概念、観念、記号、データ、情報、図形も同様)では説明することは出来ないものだ。
 つまり、知性を司る脳の部分(前頭葉)では悟ることはできないのだ。」
青年 「そんな・・・・・いきなり・・・・・それでは不親切ではないですか。
 そこをもう少し説明願いします。

 悟ったらどんな状態になるのかを理屈などで分かった上で、そういうことなら突き進んでみようかという気持ちになるのです。

 知性では無理だがそれでも進め、と言われても逡巡してしまいます。」
老師 「それでは、あえて言葉を使って、言葉では説明出来ないということの背景・根拠を説明しよう。

 この点が分からないと、進む方向を誤り、色々経典や文献や人の話を渡り歩るくことになり、何年も努力しても骨折り損のくたびれ儲けということになる。もったいない。人生は短い。

 『知性には限界あり』という方向さえ誤らなければ案外早期に悟ることも可能だ。
 それでは説明しよう。」
温泉
A.言葉や論理では悟る、つまり真実を捕らえることが出来ない理由その一
老師 「この世界の森羅万象は絶えることなく瞬時に変化を続けている(縁起説、重々無尽法界縁起)。
 万物は流転するとも言った人がいたが。

 そこで、遡ること1万年前の世界があったとしても、それ以来宇宙は変化し続けて来たから、今現在では、その1万年前の世界は存在しない。記憶の中に存在するにとどまる。記憶の中の内容は仮想であり、虚仮である。
 また、1万年後の世界も未だ来ていないので存在しない。未来の予測も思考の産物であって、仮想であり、虚仮である。

 同様に、1万年でなくても、
 1秒前の世界は今この瞬間の世界へ変化したから、今現在では、1秒前の世界は存在しない。記憶細胞中にしか存在しない仮想であり、虚仮である。
 また、1秒後の世界も未だ来ていないので存在しない。これも仮想であり、虚仮である。

 その結果、この世界は、今この瞬間にしか存在しないことになる。
 これがこの世界の真実の姿であり、真実の自分の姿ということになる。

 『灰は後、薪は先と見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、先有り後有り、前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、後有り先有り。』正法眼蔵 現成公案。 」
青年 「うーん、そう言われればそのとおりですが、それは、現在の家があり、空があり、木々が茂っている状態のことでしょう? そんなこと当たり前ですが。

 明日のことを思い煩うこと無かれとか、今を生きることこそ最も重要とか、一日一生とか色々古来言われています。インターネットを見ても、今ここを生きるとかなんとか、多くの人達が主張してますが。」
老師 「まーそれはそうだ。しかし私が言っているのはもっとぎりぎりの瞬間のことだ。大体の話ではない。」
青年 「ぎりぎりの瞬間ですか。うーん。」
老師 「ま、今ここという話は、即今とかhere-nowとか色々表現されており、沢山の人が着目していて発言しているが、さて本当に分かって言っている人がどれだけいるのか? 

 殆どの人は、「今」には結構迫っているが、この山やビルや車が存在しているこの現実の立体的空間については常識的な世界に終始し疑っていない。今自分の居るこの家は至極当たり前の存在と思っている。

 しかし、今という瞬間を本当にぎりぎり追い詰めると、いわば薄い一枚の紙の中、更には線の中、或いは点の中に、この家や富士山や近所の川や星や太陽が全て詰め込まれて存在していることになる。

 例えば、東京駅が立体的な構造物であることの認識は、表側を見て、裏側を見て、上側から見て、横側から見てなどしないと分からないはず。

 しかし、表側から見たあと、裏側から見ようとするとその時には、既にその表側から見た状態は過去の記憶内容である。表側の姿が分かっているように思えるのは、その時点で、頭の中の表側についての記憶細胞が活性化しているに過ぎない。それは、頭の中の想像(イメージ)に過ぎず仮想であり、虚仮である。

 時々、禅を極めた老師が扇子でミカンを隠したり出したりしながらこのような説明をすることがある。

 従って、今この瞬間を本当にぎりぎり追い詰めると、立体的なビルや道路などの存在も薄い紙一枚の中に存在しているということになる。

 仮想であり虚仮である過去や未来を編み出す記憶や思考を一切使わず、今現在の一瞬の存在をギリギリまで追い詰め把握するとなると、そうならざるを得ない。」
青年 「えー! それは不可解で不安になります。
 まあ理屈上はともかく、実感としては全く分かりません。その実感するというか体得するにはどうしたらいいですか?」
紅葉
老師 「何度も言うが言葉や図形の説明では実感することは無理である。」  
青年 「言葉や図形ではだめですと言われても。。。 何故だめなのですか?」
老師 「理屈っぽいお人だな。多少理屈っぽい説明になるが、言葉というものは変化しないことを本質とするからだ。

 『山』といえば『山』であって、直後に『海』の意味を持つようでは、『山』という言葉は意味をなさない。言葉は固定化が本質といえる。
 脳の中の記憶を司る細胞にそれらの言葉が蓄積されているが、その蓄積の仕方は保持、維持、固定が本質である。一秒毎に内容が変化するようでは記憶とは呼べず、記憶そのものでは無くなるからだ。
 極端な話し、たとえ「変化」という言葉であっても、直後に「不変」という意味は持てない。

 その固定化という本質的特徴を持つ言葉や図形によって、瞬時に変化し流動するこの世界を把握しようとすることは無理である。」
青年 「なんとなく分かります。言葉や図形でだめとしたら、どのようにしたら実感する、つまり悟りを開くことができますか?」
老師 「ま、例えば、山を千回登り降りするなど何か手段があればいいのだが。それは無い。
青年 「がっかりです。」
老師 「残念だが、そうなのだ。ただ言葉や図形でだめということにヒントがある。
 つまり、積極的に、その言葉や図形を使わない態度がその手段となる。

 その結果、この瞬間の世界を体得できる。体得すれば、この世界はすべて連続していることが分かる。森羅万象は変化し全て連続しており、一如であることが分かる。」
青年 「どうもよく分かりませんが。飛躍がありすぎるように思えます。」
赤ん坊
老師 「そうかな。 この言葉の働きを停止するという点について、身近な話がある。

 赤ん坊や幼児は、言葉を知らないので自然にその働きを停止しているといえ、この一如の世界を実感しながら生きている。脳の発達、特に前頭葉の発達が未熟なのでそういうことになる。

 それが次第に母さん、父さんといった言葉を知るに従って、変化しない世界を習得していき、大きくなる。自我が確立してくるということは、私という不変の固定物が定着していく過程である。

 その結果、森羅万象は変化し、全て連続しており、一如であるという実感から遠ざかり分からなくなる。世界の殆どの大人はこの状態にある。」
青年 「それでは大人になってしまうと実感できないのですか?
 大人になっても、この瞬間の世界を体得し直して、悟ることが出来るとすればどうやって出来ますか?」
老師 「それには赤ん坊のように言葉の働きを停止すればよいことになる。
 言葉や図形がこの世界の真実の姿や本当の自分の姿を霧の中に追いやっているのだから。 」
草原と空
青年 「言葉の停止ですか・・・ でもそんなことすれば、生活が出来なくなってしまいます。

 勤め先の住所は? 出勤日は何時? 今日は何曜日? これらは、脳による言葉や図形の記憶があってこそ対応出来るのであって、それらの言葉や図形を駆使してビジネスや学業を行っているのですから。

 言葉や図形の働きを停止するなんて無理ですが。」
老師 「ああ。簡単なことではないことは確かだ。

 世間には三日で悟りが開けるなんて宣伝しているセミナーもあるようだが。
 どんどん印可を出す偉い人もいるようだが、そう簡単に体得できるなら、お釈迦さんの出現から長い年月経過しているから、現在何千万人も悟りを開いた人達が居るはずだが。

 何処にいる?

 自称覚醒者といった人達は殆どが未だほど遠いところにいる。中には言葉巧みに財産を吸い取る詐欺師も居る。『布施』とか『喜捨』とか都合の良い仏教用語があるから欺されやすい。」
青年 「はい簡単では無いこと、気を付けます。お続け下さい。」
不立文字(仙厓 不立文字)
老師 「この言葉や図形の働きを停止する点に関して、赤ん坊の話ではなく、大人の世界で追求して来た分野がある。

 『不立文字』という言葉をご存じかな?これまた言葉だからやっかいだが。禅の世界がその分野である。」
青年 「禅ですか・・・。」
老師 「文字を立てず。つまり、禅では、文字や言葉や図形などで真実を追いかけないという意味だ。

 悟りを文字や言葉や図形で説明することはしないということだ。

 にもかかわらず、禅の分野でもまたまた多数の言葉があふれている。
 碧巌録、臨済録、無門関、正法眼蔵など様々な書物がある。」
青年 「そうですね。不立文字なのに変ですね。」
老師 「しかも、仏教の経典や有名な文献は、長い間多くの人に支持され尊重されてきたのだから権威があり、そんなもの読んでも悟ることなど出来ないとか言っても大きな抵抗がある。

 その結果、多くの人は碧巌録や正法眼蔵などの文献を調査し、分析し続けて来たといえる。」
青年 「わたしもその中の一人です。やはり不立文字といっても、各種経典や有名な文献を簡単には無視出来ないです。」
                             コーヒー
B.言葉や論理では真実を捕らえることが出来ない理由その二
老師 「そうだろな。

 ところで少しややこしい話しになるが、あんたは、それら経典や文献に書かれている文字や言葉や文章を目で見て頭で解釈し理解して、道元禅師は、ああ言っている、こう仰っていると思っているだろう?」
青年 「そうですが。他に、文献には、無我、無性、色即是空、縁起、空即是色、唯識、無碍、阿頼耶識、魂、霊魂、狗子、無字など様々な言葉が山のように書かれていますので、色々勉強し解釈してなるほど作者はそう伝えたかったのかなど感心しておりますが。」
老師 「その場合、あんたの目で見た文字や言葉を、それまであんたが勉強してきて、脳の記憶細胞に記憶している文字や言葉に照らし合わせて、例えば『菩提心を大切にせよ』と書いてあると認識し、それまで自分が勉強してきた『菩提心』とか『大切』とか『せよ』といった言葉の意味を思い出して、この文献の作者は、そういう意味を書いたのだと解釈しているだろう?」
青年 「そうです。常識です。」
老師 「その場合、作者が『菩提心を大切にせよ』という言葉、文章を書いた際の作者の内心の意図と、あんたが読み取って解釈した『菩提心を大切にせよ』の意味が、同じとおもうか?」
青年 「同じです。同じ文字、言葉、文章ですから。」
老師 「 違う!!

 『菩提心を大切にせよ』という言葉、文章についてあんたが解釈した意味は、あんた自らが、小学校、中学校等の学校で習い覚えたこと(
あんたの脳の記憶細胞の中に蓄積)、また社会人になってから色々調べたりして得た事柄(あんたの脳の記憶細胞の中に蓄積)など、過去に経験し、勉強してきた知識(あんたの脳の記憶細胞の中に蓄積)を駆使して把握した意味に過ぎない。

 そして、他方、作者が『菩提心を大切にせよ』という言葉を書いて伝えたい意味内容も、所詮はその作者が過去に経験し、勉強し、
彼の脳の記憶細胞に記憶してきた意味に過ぎない。書物全部についても同じことだ。」
青年 「言われてみればそれはそうですね。私の解釈した結果は、私がこれまで経験し、勉強した内容における意味でしかあり得ません。」
老師 「では、あんたの経験、勉強内容と、作者の経験、勉強内容とは同じか?」
青年 「違います。」
老師 「そうだ。違うのだ。結局、いくら丁寧に文献を読んで解釈したところで、作者とあんたとは、同じ『菩提心を大切にせよ』という言葉、文章を扱いながら、意味内容で必ず不一致が生じていることになる。
青年 「はー」。
二匹の猫
老師 「例えば、小さいとき猫に噛まれた経験がある人と、そういった経験が無いまま猫と仲良く暮らして育った人が、互いに『猫』という言葉の解釈が一致するはずがない。
 そして互いに自分の方が正しいと論争したりする。

 このように、我々一人一人育った世界が互いに違う以上、我々一人一人の脳の記憶細胞の内容は必ず違ったものになる。
 つまり、異なる以上、言葉の解釈は全て違うといってよい。」
老師 「このことはそこら辺の身近な手紙や科学文献の言葉や文章でも、碧巌録や正法眼蔵などの優れたといわれている文献や言葉の解釈でも同じことだ。
 仏教では、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果、輪廻転生、心身脱落、脱落心身、阿弥陀、金剛、阿羅漢、八正道、中道、四諦、法印、阿頼耶識、法身、意識、方便、一切皆苦、末那識、闡堤、印可、因果、浄土、因縁、有、世間、宇宙、回向、縁覚、執着、縁起、往生、応身、応報、真言、厭離穢土、我、帰依、地獄、機根、行、境界、空、久遠 、中道、実成、供養、薫習、小乗、解脱、還相回向、悪人正機、化身、現量、業、降魔、投機、極楽、如来、他力、根本分裂などの言葉が際限なくある。

 また、キリスト教では、回心、神の子、再臨、救済、奇跡、サムソン、原罪、降誕、根本主義、三位一体、信仰義認、聖霊、証し、購い、神品、悪魔、憐れみ、異端、インマヌエル(日本語での翻訳語)などの言葉が 際限なくある。

 また、イスラム教では、アッラー、信仰、礼拝、ウンマ、慈善、喜捨、断食、巡礼、預言者、啓示、相続、スーフィズム、信仰告白、経済、政治、天国、ヒヤル、地獄、ミナレット、正統カリフ、因果応報、生と死、最後の審判の原則、着物、飲食、十字軍、売買、契約、習慣、結婚、離婚(日本語での翻訳語)などの言葉が際限なくある。

 これらの言葉や文献の価値を一概に否定はしないが、書いた人と読む人との間に、正確な意味内容が正しく伝達されることは絶対あり得ない。
 ましてや、悟りの内容が、言葉や観念、概念、図形などの知性で伝達されることは絶対無いということだ。」
光の束
老師 「このことは、文献を読む場合だけではなく、偉い人の講演を聴く場合でも同じだ。

 また、インターネットのサイトには、いわゆるスピリチュアル系の言葉があふれているが同じことだ。
 ワンネスとか波動とか多次元とか非2元とかノンデュアリティとか色々な概念や観念が際限なく出てくるが、結局各自がそれぞれ各自の経験・記憶の範囲で解釈しているに過ぎない。」
青年 「はー、つまり、経典や、文献は全て言葉、文字、図形で構成されていますから、結局どのように読んでも、どんなに沢山読んでも、読み手側の記憶細胞の内容、つまり過去の経験と勉強で決まるということですね?」
老師 「そうだ。読み手側の本人の過去の経験、勉強内容(個々の脳の記憶細胞の内容)から一歩も出ることはなく、もし仮に、仏典に真理が言葉や図形で書かれていたと仮定しても、それを正確に把握することは全く不可能といえる。

 読み手であるあんた自身の過去の経験や勉強内容をふり返れば冷や汗もんだろう。」
青年 「恥ずかしい限りです。」
老師 「私もそうだ。だからいくら立派な辞書を調べたといっても、その辞書を書いた人々の個々の経験と勉強が延々と累積されているので、何万冊の辞書を辿っていっても同じことだ。

 大体の擬似的な話なら未だましだが、面白おかしい嘘八百の空理空論の世界に巻き込まれてしまっては情けない。」
青年 「ということは、百万巻の経典や碧巌録や正法眼蔵などの文献をいくら読み込んでも、真実の世界の姿や真実の本当の自分の姿は絶対分からないということですね。

 そしてこのことはキリスト教の聖書やイスラム教のコーランや、仏教の日蓮宗や浄土真宗の経典にも当てはまるのですね。」
老師 「そうだ、くどいようだが、それぞれを書いた人物やそれらを読む人々の経験や勉強内容(個々の脳の記憶細胞の内容)は、時代や使用言語や個々の生活体験など全てにわたって互いに異なるのだから、真実を言葉や図形に求めても永久に不可能だ。

 これを不立文字と断じたのだ。 」
老師 このことは極めて重要な点であり、悟りの存在する方向を示す生命線である。

 
間違った方向へ進んでしまうと、血のにじむようなありとあらゆる努力をしたとしても、無駄な歳月ということになってしまうま、無駄な歳月で終わるならまだしも、心の病にでもなれば一体全体何をやっているのかということになりかねない。
 肝に銘じるべきである。」
青年 「肝に銘じます。」
多くの文献
区切り線
 閑話休題

仏教用語について

◎ 十牛図(廓庵禅師)
  この図では、悟りへの過程を、「尋牛」「見跡」「見牛」「得牛」「牧牛」「騎牛帰家」「忘牛存人」「人牛俱忘(一円相)」「返本還源」「入鄽垂手」と十段階に分けているが、悟りそのものに何段階もあるのではない。

  *「尋牛」
   人生に迷っているところで、多くの人達がそうだ。もっとも他に金儲けや出世や異性を求めることだけに一生懸命の人達もいる。その人達は尋牛のステージには勿論居ない。

  *「見跡」
   文字、言葉、観念、概念、論理ではここは把握出来ないことに
腹が据わった段階である。悟りへの方向に気付いた段階である。進む方向が間違っていると、数十年追及しても骨折り損のくたびれ儲けとなる。もったいない話である。
   従って、この「見跡」は重要といえる。

   いわゆるスピリチュアル系のサイトなど拝見することがあるが、この「見跡」にも来ていない人が多い。無我とか無認識とか空とか無次元とか波動とか無空間とかパワーとかフォーカスとか愛とか非二元とかワンネスとかの概念(観念・言葉)を駆使しながら統一的な理論やメソッドを一生懸命追いかけてその結果を紹介している人が殆どだ。
   いくら瞑想などしていて宇宙と一体になった感覚が生じても、脳細胞が引き起こす現象に留まる。健康法としては良いかもしれないが。
   また、薬などでも脳細胞にある種の幸福感をもたらす現象も引き起こせる。
   チャクラとか光の輪が現れたとか見えたとかもその一貫に過ぎない。
   しかし、それらは「山のあなたの空遠く、幸い住むと人のいう。。。。」(カール・ブッセ)といった世界だ。
   たとえいくら「今ここ」だから「遠く」を追及していないと彼らが強調しても、脳の前頭葉を駆使し観念で理解しているに留まってい限り、その「今ここ」は対象化されており、やはり山の向こうの方を探しているといえる。
   かれらの動画を見ればそれは分かる。理屈で何とか説得しようとする様子が分かる。
   言葉や概念自体が迷路であると本当に気付く(見跡する)と、以後は、他の人が無だとか有とか有無ではないとか、ああだこうだと言っていることに、いちいち付いて回る気がしなくなる。馬鹿かとさえ思えて来る。教えてやりたくなる。
   未だ、言葉や概念の迷路の中に漂う人は、他の人が無といえばそれに付き、有といえばそれに付き、有無ではないそれらを超克したものだと言えばそれにつき、いわゆる蔦や葛の輩という人達である。もっとも人類の絶対的多数派ではある。

   
このような言葉・概念の限界に気付か無い状態(見跡もしていない状態)で、瞑想したり、心を観察したり、認識したり、あるいは我が消えたとか、天井まで飛んだとか、精神が爆発したとか、笑いがこみ上げて来たとか、涙が自然とこぼれたとか、我を忘れたとか、無我状態になったとか、無認識になったとか、心理状態をあれかこれかと追い回すと、日常生活が壊れるばかりでなく、下手したら精神がおかしくなることもある。要注意だ。
   ヨガ等も色々専門用語があるが、分かりにくい用語程、幻惑力が強いから、余ほど気を付けないと危ない。脳細胞の個々の現象は千変万化するので、これからもいくらでも、もっともらしい神秘的な概念や言葉が誕生する。それらに引きずり回されている内に、一生が終わる。

  *「見牛」「得牛」「牧牛」「騎牛帰家」「忘牛存人」
   見つけた跡を手掛かりに正しい方向に沿って何とか真実を追求している様子を表現したものである。禅定力の差で分けている。
   禅の悟りには何段階も無い。禅の悟りは頓悟である。
   聞くところによると、ここら辺に居る程度で「見性した」といって安易に印可する方もおられるらしいが、悟りには未だ未だの手探り段階であって、素人の段階と言って良い。
   ここら辺の段階は悟後の修行でもなんでも無い。錯覚している人が結構多い。本人も内心ながら突破してないことに気付いているので、肝心なところは断定を避けていることが多い。
   インターネット上で色々それなりに発言している人にはここら辺を行き来している者が多い(実際にはインターネットで発言していない人もいるだろうから実際はどのくらいいるのか分からないが)。
  「見牛」と「見性」で「見」が共通だから見性した、などというシャレにもならないことがまかり通っている。

  *「人牛俱忘(一円相)」
   いわゆる
大悟した段階。ここまで来ないと見性も悟りもくそも無いのだ。
   ここが本当に重要な段階である。ここまで来て始めて、我も釈迦も対等ということを明確に体感することになる(
頓悟)。
   本当に悟りを開いたと言っていい。今ここの世界に、頭の先っちょだけでなく、全身で飛び込んだ状態である。それまで、得牛とかいろいろ禅定力などで追及してきたが、それでもなお、それは『山のあなたの空遠く幸い住む・・・』という世界に過ぎなかったことが、ここではっきり分かる。
   
従って、悟りは、大悟という頓悟一回である。漸悟では決して無い。見性とか小悟という言葉もあるが、一瞥覚醒みたいなあやふやなものも含み得るので使わない方が良い。
   白隠でいえば、越後の英巌寺で体験したことが大悟であると言って良い。その後は本当の悟後の修行であって、正受老人に穴ぐら禅者と叱られながらしごかれてはいる。最も重要なことは、白隠も言うように英巌寺での大悟である。
   一休でいえば、祥瑞寺にてカラスの鳴き声を聞いて、俄かに悟った場合である。


   全てはここから始まる。これが無い以上何をどう言っても始まらない。

  *「返本還源」
   その一円相(今ここ)をも消去し大悟徹底した段階。無い、無い、無いといった空さえも消え去り、自分も含めて森羅万象が存在することになる。花は紅柳は綠の段階である。我も貴方も政治も経済も学校も無い無い無い無いづくしから、貴方も居れば私も居る世界に突入し戻った境涯である。
   真に自在な境涯になったといえる(分かりづらいと思うが欲が無くなったという意味ではない)。苦労して得た貴重な「今ここ」ということも、つまらないと思えて来ると、ある日訪れる。敢えて表現すれば凧の糸(空、今・ここ)が切れたような感覚である。
   大悟と大悟徹底とは微妙ではあってもハッキリと違う。武術の奥義などもここまで来ないと分からない。残念なことに、徹底した人は今の世間には滅多に居ない。

  *「入鄽垂手」は、世間の思考や諸々の念を駆使する常識的な日常生活にも対応した段階である。ここについては本文(悟りと日常生活との関係)を見ていただきたい。


◎ 聖胎長養
  大燈国師五条の橋下20年が有名。悟後の修行ともいう。十牛図の大悟の「人牛俱忘」より後のステージでの話。 
  巷には、「見牛」から「牧牛」あたりに居るにもかかわらず聖胎長養あるいは悟後の修行をしていると勘違いしている例がある。まだ得ていない聖胎を養うことはあり得ない。


◎ 預流果、一来果、不還果、阿羅漢果(四向四果)
  部派仏教時代のアビダルマ教学では、いわゆる四向四果とよばれる、悟りにも 階梯があり、少しずつ階段を上るように悟りを開く(漸悟)という。
  この考えは、無知と煩悩(欲)の程度で悟りのステージを分ける思想が核となっている。
  しかし、無知の解決はともかく、煩悩(欲)の程度で分けるのは間違っている。例えば阿羅漢果まで到達すれば全ての欲は無くなるとしている。また、全ての欲が無くならないと阿羅漢果では無いともいわれる。
  しかしながら、お釈迦さんも悟りを開いた途端に、霞を食べて生活できるようになった分けではない。欲が全て無くなるということはあり得ない。
  中には、だから、阿羅漢果になってしまうと、世間の普通の生活は出来ないので出家することが必要とさえいう人達がいる。その出家した阿羅漢果の食事は、そこまで到達していない人々のおかげである。地球上の人類がみんな出家の阿羅漢果になることを目指すのか?
  根本的に誤っている。
  権威ある仏典のその権威に負けた文献解釈の歪みが現れた典型である。



◎ 有余涅槃・無余涅槃 

 煩悩の火が消え、一切の苦しみから解放された境地である『涅槃』には、二種類あると言われている。有余涅槃と無余涅槃である。
 有余涅槃は、心の束縛から解放されているが、肉体の束縛からは解放されていない境地を言う。無余涅槃は心の束縛からも解放されている境地である。
 お釈迦さんが悟りを開いてから無くなるまでの間は有余涅槃であり、無くなって初めて無余涅槃に入ったと言われている。
 一見もっともらしい話ではあるが、しかし、心と肉体は別々に成り立っている分けではなく、『心身一如』と言われるように、一体である。最近の科学もそれを肯定している。
 従って、有余涅槃の境地では、肉体の束縛から解放されていない以上、心の束縛も解放されていないと言っていい。
 もちろん程度の差はあるが心の欲・煩悩の火は完全には消えない。どんな素晴らしい悟りを開いた人であってもである。
 本物の悟りを開くと『神々しい人物』(霞だけで生活出来、飯も食わず屁もこかず、いつもニコニコ)になるはずだというのは、仏教の光輝く権威に幻惑されている証拠である。家族に英雄なしということだ。


◎ マインドフルネス(mindfullness)と 坐禅
 ここ数年前から、マインドフルネスということが盛んに言われるようになっている。マインドフルネスの一応の定義は、「今現在において起こっている内面的な経験および外的な経験に注意を向ける心理的な過程である」とのこと。パーリ語のサティのことである。また、日本語でいう念の意味だそうだ。
 念という意味も多義的であり、ややこしいが、上記定義からみれば「正念」ということになる。妄想等は勿論含まない。
 意馬心猿というように、人の心は次から次へと思いを継ぎ足していく。それを断つために、内面の経験、例えば呼吸に意識をフォーカスし続けるとか、外的な経験、例えば、目の前の床の色に意識をフォーカスし続けるとかである。
 このようなことを実行することで、精神状態や免疫機能がよくなるとか言われている。スティーブ・ジョブズやグーグル会社など、欧米で流行している。ごく最近NHKで紹介もされた。
 それはさておき、坐禅と似たところがある。このマインドフルネスは、ジョン・カバット・ジンが禅をヒントにしたと言われているので、当然と言えば当然である。
 ただ、マインドフルネスは瞑想にとどまるので宗教とは切り離されている。そこが、おかしな宗教に向かわないという点で良いと評価される。
 他方、坐禅は勿論仏教という宗教の中にある。
 従って、坐禅において瞑想に留まっていてはマインドフルネスと同じである。坐禅はそのように瞑想していく中で、悟りを開くことが重要である(曹洞宗の中には、瞑想することが全てであるという向きも一部にはあり、悟りを否定する人たちもいるが間違いである)。
 このようにマインドフルネスと坐禅とは似てはいるが全く違うものである。


◎ 公案について 
 禅宗において修行者が悟りを開くための課題として与えられる問題のことである。主に臨済宗で行われている。有名な公案として「隻手の声」、「狗子仏性」、「祖師西来意」などがある。白隠は、「法身」、「機関」、「言栓」、「難透」、「向上」、「洞上五位」、「十重禁戒」、「後の牢関」という公案体系を用いた。
 その役割は、言語・観念・分別の迷路の中に居る人々(世界の殆どの人々)をその迷路から脱出させるためのものである。
 さらには、その脱出した人達をその先へ進ませるための役割の公案もある。
 なお公案とは言っても特別な存在ではない。日ごろ自らを省みて、この内容さえ分かれば、それまでの全ての疑問が解けるというところまで突き詰めた場合(大疑団)、それがその人にとって公案である。
 典型的な例が
盤珪禅師である(1622年4月18日~1693年10月2日)。彼は『明徳』とは何かを死に物狂いで追及し、ついに悟りを開いた(不生禅)。
 曹洞宗では一般に公案を取り上げないと言われているが、公案の本来の意味が分っていれば、公案も曹洞宗の中にあると言ってよい。
 また、伝えられてきた公案集を秘密にしておいて権威を保ちながら小出しにする等は問題外である。そのような公案集は燃やしてしまえということである。それで一向に構わない。公案は歴史書では無いのだから。




色々な人々について

◎  ジル・ボルト・テイラー博士(脳科学者)
  彼女が1996年のクリスマス直前に脳卒中で倒れた際の話にはかなり本質をついた部分がある。悟りと脳との関係を探る上で貴重な話しではある。ただ、あの講演(YouTube動画で拝見)での彼女は宗教的(道徳的)過ぎの感がある。


◎ エックハルト・トール
  
1948年2月16日生まれ。彼は、頑張っているのだが、十牛図でいえば、「見牛」「得牛」「牧牛」のステージにいる(インターネットで拝見した限りでの感想です)。
  時間の瞬間性に迫ってはいるが空間については平凡な感じ。


◎ 玉城 康四郎

  1999年1月14日84歳逝去。何十年に及ぶ探求と努力の人である。色々心理的体験をされているようであり、ご苦労されておりますが、残念ながら大悟することはなかったようです。仏教学者です。非常に頭脳に優れた方でありましたが、それが却って壁になったのでしょうか。人にとって色々な知識を増やすことは楽しいことだが、悟りにおいては、知識は一顧だにされず、むしろ邪魔である。


◎ 井上哲玄老師
  1933年4月6日生まれ。まだご存命であり、カフェ等で教えておられる。
  この方は大悟されている。ただ、失礼だが、とある会合での参加者からの質問で、思考をフル活動させなければならない日常生活と、悟りの生活との両立について質問されたときの老師の説明は今一つ明快ではない。そのときの質問の仕方が今一つだったのかも知れないが。


◎ 
井上義衍老師
  明治27年7月27日生まれで、88歳で遷化された。上記井上哲玄老師の尊父である。
  25歳のとき、観劇の最中に大悟された。大悟のきっかけは何でもあり得る。
  さらにその後、飯田トウ隠に参禅し、ある時、ホオジロの声を聞いて、鑑覚の病を脱して修行に決着がつき自在の境涯を得た(大悟徹底である)。
  臨済宗も曹洞宗も包み込む大きさがあった。
  大悟して得た”今ここ”の境涯をも更に消し去り、大悟徹底された希少な人物である。


◎ 自称悟った人達
  インターネット動画には、自称悟った人が何人も出て来るが、インド人などの外国人であろうが日本人であろうが、また僧俗を問わず、単なる知識・言葉として無我とか無性とかを理解している学者的な人は論外として、言葉や論理を超えたところに悟りがあると気付いたに過ぎない程度の人が多い。
 皆さんは十牛図の「見跡」乃至「牧牛」あたりに居る。禅定力の差で行きつ戻りつしている。
  講演や動画では、言葉や論理を超えたところに悟りありと感覚的に捉えながら、言葉を繰り出している。
  しかしまだ、人牛俱忘の大悟の壁を突破していないので、どうしても理屈を超えたところに悟りありといいながらも、軽やかに或いは一生懸命喋っていても、自らに言い聞かせているような雰囲気が漂う。
  よくある話しは、悟りを開けば無我となり空となり宇宙と一体となるので、私と貴方との区別は無くなり、愛と慈悲に満ち、皆がそうなれば平和になるといったところである。
  本当の悟りの庭には生死なし、憎愛なし。善悪など全く届かぬ世界だ。
  従って、やたら愛とか慈悲とか平和とか主張する人は偽者だ。ま、そう言わないと大勢の人の期待に沿えず、付いて来なくなるのも困るからだろう。

  また、宇宙そのものになるのだから生まれ変わることもなくなり解脱するとか。反対に、悟りを開かない限り宇宙と一体にならないから、輪廻転生し続けるとか。こちらは取りようによっては脅しに近くなる。
  輪廻転生については、本サイトの本文で詳しく言及するが、嘘である。
  それでも、輪廻転生は余程面白い考えで、空想物語や映画のあちこちに登場する。
  フィクションとしては面白いが、全て間違っている。


                              >>悟った人は聖人君子になる?   

  
知性の限界の根拠 悟ると聖人君子になる? 悟りと脳(悟りへの方向) 大悟徹底とは何か 悟りと日常生活の関係 普通人も悟る必要があるか
      

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