悟りと日常生活

悟りと日常生活との関係

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知性の限界の根拠 悟ると聖人になる? 悟りと脳(悟りへの方向) 大悟徹底とは何か 悟りと日常生活の関係 普通人も悟る必要があるか

悟りと日常生活との関係

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 このページの要約
 *** 大悟徹底しても、普通の日常生活にはまたそれ相応に対応しなければならない。文殊の知恵と、普通の日常の思考、計画、判断、行動の世界とを両立させなくてはならない。
 人々への説教もよほど気を付けてすべきである。***

A.大悟徹底しても全てがそれで収まる分けではない。思考をフル回転しなければならない毎日の生活やビジネスには、またそれ相応の対処が要る。
 古老が旧知の只人の処へやってきた。
只人 「よく来たな」。
古老 「元気で過ごしておられたか」。
只人 「あー、相も変わらずだ。隠退もままならん。」
古老 「それはよかった。」
只人 「あんたはどうしてしてる?」
古老 「寺で、始めは芳草に随い去き、また落花を逐って回っております(『碧巌録 第36則 長沙遂落花回』 始随芳草去又逐落花回)。
 痛快な境涯です。」
只人 「それで 普通の人にはどう説明しているのか?」
古老  老老師 「見聞きすることに徹しておれば全て旨くいく。庭前の柏樹子でいろ。
 思考を重ねるのを避ければ生死も無いとか。」
柏の樹
只人 「それは片手おちだな。 そのようなことをいう高僧もいるだろうが。
 
全ては瞬時に変化し過去、未来は虚仮の世界とはいっても、大体において変わらぬ道路、学校、あの人、この人、といった世間があるのだ。

 普通の人が悪戦苦闘している世界だ。それを虚仮の一言で説教しては片手落ちだ。

 一塵を起こせという話しもある(『碧巌録 第61則 風穴一塵』)。

 さらには、『釈迦如来が文殊、罔明引き連れて』といった歌もある(女子出定『無門関 第42則』)。罔明とは初心者である。
 全てを分かっている文殊菩薩だけでは足らず、この平凡な無知な普通の人である罔明をも釈迦如来が必要としたということである。」
古老 「・・・」
只人 「虚仮の世界にはそれ相応の対応をして生活していかなければならない。

 一蹴してはいかん。その世界は政治、経済、学校、商売、貿易、戦争とそれなりの分野がある。
 理事無碍法界が分かったからといって、それだけで片付く分けでは無い。

 そもそも過去の記憶や明日への計画など一切せずして、説教などお寺の仕事でさえ、出来るものではないし、あんたも日常生活で思考を使っているだろう。
 そこは誤魔化さずハッキリさせなければならぬ。」
古老 「・・・」
泣く子供
只人 「一例をあげてみると次のとおりだ。

 あんたがお寺に居るとする。そこで、声が聞こえたとする(あんたの聴覚細胞が活性化したことになる)。それに伴い、過去の記憶細胞も活性化して、隣の家の子供の泣き声と分かる。
 さらに、記憶細胞から、a.いつもの親子げんかと分かる、あるいは、b.いつもとは違う異常な泣き声と分かる。
 そこで、どうするべきか判断する。親子げんかならほっといたらいいと判断し、異常な泣き声なら駆けつけないといけないと判断する。

 普通の人と、悟った人とはここまでは同じである。

 その後が違ってくる。

 a.いつもの親子げんかの場合は、
   普通の人の場合は、
     いつものげんかと分かる→放っておいたらいいと判断し→例えば自分が子供だったころを思いだす。→さらにいじめられたこと等を思い出し、次々と連想し、虚仮の世界を巡ってしまう。

   悟った人の場合は、
     いつものげんかと分かる→放っておいたらいいと判断するが→それ以上次々と連想はしない。そして、自動的に、目の前のお茶が見え、そのとき鐘の音が聞こえればそれをそのまま聞くということになる。リアルな世界に直ぐ戻っている(虚仮から直ぐ覚醒して我に返る)。


 b.異常な泣き声の場合は、普通の人も、悟った人も、隣の家へ駆けつけることになる。
   悟った人でも、思考を駆使してどちらから聞こえてきたか、それにはどの部屋と、どの道を通って行けばいいか判断する。また、連絡すべき人を思い出して連絡する。そして駆けつける。思考はフル回転だ。
古老 「分かりました。大悟徹底した人でも、記憶も積極的に利用して、理解し判断し選択することも欠かせないということですね。

 隣の家で異常事態が起こっていた場合でも、我が庭に生死無し(慧玄が這裡に生死無し『正法山六祖伝』)、いわんや異常事態など無いなどと言って座り込んでいてはいけないということですね。」
只人 「そうだ。理事無碍法界だけでことがすむのではない。
 そのような段階まで到達した人は極めて僅かしか居ないが、それでも余程気を付けないといけない。
 でないと『禅天魔』などと言われることになる。」
只人 「白隠禅師が四十二歳のとき、夜中に法華経の「譬喩品」に接している中で、コオロギの鳴き声に、突如その真意に目覚めたとされている。

 白隠の本心は勿論分からないが、『菩提心無き修行者は魔道に落ちる』ということの意味をあらためて噛みしめたと伝わっている。

 そして、その後の白隠の社会での布教活動はめざましいものがあった。

 華厳の事事無碍法界の世界である。

 ある人は一箇半箇を創り出すことに力を注ぎ、あるいは、大勢の人々を教えることに精を出すなど色々あり、その人の性格、個性によるだろう。」
只人 「要するに、禅というものは、この世界が一如(無、空、今ここ)であることを悟り(大悟)、そのあと、その大悟した悟りの境涯(無、空、今ここ)を脱ぎ捨てることで大悟徹底して見聞作用自体になるとともに、再び前頭葉で思考を駆使する日常の生活やビジネス社会にも対応していくということである。
空と風車
B.大悟徹底しても、悟り以外については素人と同じであることを自覚すべし
只人 「さらにまた、日常生活の世界についていろいろ発言する場合も、いくら悟ったといっても、スーパーマンになるわけでは無いので、禅が分かったからといって、禅以外の分野についても何でもわかった風なアドバイスをするとおかしなことになる。
 発言してはいかんということでは無いが。

 ノーベル賞は素晴らしいがそれはその専門分野での話しで、その人が語る政治が素晴らしいとは限らないみたいなものだ。
 
 更にいうと、悟った人でも才能、個性、性格、など色々違っている。
 前にも述べたように、悟ったからといって、聖人君子になる分けではない。日常生活では、その人それぞれの性格が当然現れる。
 もともと人格者の性格があればそういう行動を取るし、反逆児的な性格ならそれらしい行動を取る。なかには、世間一般のモラルからみておかしい行動をする人も出てくる。例えば一休。
 あんたはどういう性格をしているのかな? 」
 
古老 「恐れ入ります。」


注) 風穴和尚
 正式には汝州風穴山の延沼禅師。臨済禅師の嫡孫である。「若し一塵を立すれば、家国興盛し、一塵を立せざれば、家国喪亡す」


 
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