A.お坊さんは悟りを開くべし。 |
そこへその寺で修行中のお坊さんが現れた。 |
老師 |
「あ、お前さん大分修行は進んだかい?」 |
お坊さん |
「はい、四六時中、思考は虚仮だと言い聞かせ、前後裁断、今ここ集中と言い聞かせ、そこを逃さぬように気を付けております(『已に起のものは継ぐことなかれ、未起のものは放起せんことを要せざれ、汝の十年の行脚に勝る。』臨済録示衆。 『灰は後、薪は先と見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、先有り後有り、前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、後有り先有り。』正法眼蔵 現成公案。」 |
老師 |
「その調子だ。」 |
お坊さん |
「座禅中に、時々光が見えたり、自分が宙に浮いた感じになったり、昨日は光り輝く大日如来像の姿が現れたりしました。」 |
老師 |
「そんなものは錯覚だ。脳細胞が色々発火しているだけの話しだ。相手にしてはならない。
そこら辺でもう私はつかんだと思い込んで、仏の姿を見たとか、愛と平和を伝道するとかなんとか、世間に悟った悟ったと言い張る輩もいるので要注意だ。」 |
お坊さん |
「はい、気を付けます。」 |
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それから数日後、その老師の元に友人の古老(大悟徹底した人)が訪ねて来た。 |
B.大悟しただけではだめ。さらにその悟りも捨てなければならない。 |
古老 |
「や久しぶり。」 |
老師 |
「はいそうですね。」 |
古老 |
「ある青年が色々聞きに来たそうだが。」 |
老師 |
「紙一枚の現在の世界の存在する方向を教えてやりました。」 |
古老 |
「それはよかった。分かったようだったか?」 |
老師 |
「うーん。ま、機縁が熟せば分かるでしょう。」 |
古老 |
「ところで、おまえさん、その今ここの現在の世界を大事なものとして未だ抱えているのか?」 |
老師 |
「え、そうですが。今ここだけがリアルな世界ですから。此処こそはこの世の全てですから揺らぎません。釈迦も私も対等です。」 |
古老 |
「それはそれでよい。しかしそれはいわゆる大死一番した一円相の世界だ。華厳でいう理法界に過ぎない。
華厳経によれば、この世界は個々の事物が相互に関係しあい、無限に重なりあっており(重々無尽縁起)、四法界(事法界、理法界、理事無碍法界、事事無碍法界)で表現出来る。その一つが理法界である。」 |
老師 |
「はー。まだ先がございますか?」 |
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古老 |
「ある。その今ここも振り解かないといけない。今ここを大事に抱えていてはだめである。振り解かないといけない。
そうすることで本当に見聞きする働きそれ自体が自分であるということになって、本当の自由となる。
そこには一部の隙も無い。そこは活溌溌地な世界だ。臨済のいう全体作用の世界だ。
一円相のような動きの取れない静寂の世界ではない。
華厳経の四法界のうちの理事無碍法界だ。
馬祖道一の「作用即性」である。痛快な境涯でもある。
ここまで達しないと禅を目指した甲斐が無いというものだ。
遊戯三昧の世界でもある。
そこまで到達して始めて十牛図の返本還源となる。 」 |
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(伝周文 筆) |
老師 |
「はい、そういうことは色々知っているつもりではいましたが、私は、今ここや無や空を抱えていたことになりそうです。」 |
古老 |
「そうだろう。そこを突破して、透明なシャボン玉が更にその透明さも完全に消え去るように、『今ここ』の悟りも消去されないといけない。その結果、返本還源となる。敢えて表現すれば凧の糸(空、今・ここ)が切れたような感覚である。
そして、そこまで到達して始めて、見る作用自体が、聞く作用自体が真の自分となる。 真の自分はそのような作用以外には存在しない。
一円相に止まっている限り、この作用というか、動きが出て来ない。
あの白隠禅師が越後の英巌寺で大悟した後、信州の正受老人に会い、自身の見解を示すと、正受老人から『このあなぐら禅者め。これしきの境涯で満足しているか』と叱られたという有名な逸話がある。
またその際、正受老人から、『死人のように動きのとれぬ禅坊主』と怒られたとのことだ。
その後、色々工夫をしながら托鉢している最中、とある老婆に箒で叩かれた瞬間、遂に透脱して開眼した。
そしてその帰って来た白隠の姿を正受老人が見るやいなや、『汝徹せり』と言われた、と伝わっている。見る人が見れば分かる。
白隠はそこで大悟徹底したのである。
また、大燈国師も『三十余り我も狐の穴に住む 今化かさるる人もことわり』と詠まれている。
ここでいう狐の穴とは大悟した境涯である。そこを最終境涯と勘違いするのも無理からぬと言っている。
また、井上義衍老師も、鑑覚の病いの存在を自覚し、大悟してもそれにつかまり、自由がきかない状態があった。それがその後ホウジロの声を聞いてほどけたと述懐している。
ここのところを突破したかどうかを確かめるために、色々な公案がある。
『眼横鼻直』、『山是山、川是川』、『金鎖の難』、『疎山寿塔』、『乾峰三種』などがある。
ま、これらも知識として分かっても何にもならんが。
大悟することも難しいが、徹底することも結構むつかしい。
せっかく手に入れた『今ここ』などつまらないと思い始めて忘れている中で、向こうからやって来る。
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老師 |
「脱線しますが、大悟した人と大悟徹底した人とを見分けることは、素人の第三者に出来ますか?」 |
古老 |
「うーん。そこまで到達した人かどうかを見分けることは難しい。というのも、『自分とは見ること自体だとか、聞くこと自体だ』といったことは、一円相に止まっている人でも、いくらでも言ったり書いたり出来るからだ。」 |
老師 |
「では見分けることは無理でしょうか?」 |
古老 |
「実際にその人の動作を観察すれば、素人目にも言葉だけで言っているのか、本当に達しているのかは区別がつく。
その人の動作には、空とか無とかを吹き飛ばす程の力の発露を感じることが出来る場面がある(『剣と禅』 大森曹玄 五位兼中至 金翅鳥剣両刄鋒を交えて避くるを須いず、宛然として自ずから衝天の気有り)。
臨済のいう全体作用だからである。静止、静寂なる感じでは無い。
もっとも四六時中発露すると周囲に迷惑が掛かるので、普段は名刀は鞘に収めている。
例えば、日常生活において普段の歩く姿を遠くから見ることなどでも本物かどうかが分かる。
悟りもなにも分かっていない普通の人の日々の動作には、見る自分と見られる対象との間に隙間があるから、スッキリした動作があまり見られ無いことは勿論である。
更に、大悟した人でも、意識してないにしても、今ここを抱えているので、完全にスッキリした動作にはならない。
もっとも大悟徹底している人は本当に極めてまれではあるから、普段、そのような人の歩く姿を見る機会は無いだろう。
だから、結局本物を見たことがないので本物か否か区別が出来ないということに現実はなっている。 」 |
老師 |
「恐れ入りました。」 |
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古老 |
「ところであんた、普通の人に色々教えてはいないだろうな?」 |
老師 |
「はー」 |
古老 |
「世間には、大悟したところに止まっている人がいる。ま、仏教の知識の切り売りをしている人達よりも遙かにましだが、その何も無いということも無い動かざる世界を最終的に大事に抱えているようでは、人に教えるのは時期尚早だ。
こんなすごい境地があるのにみんな気がつかないという優越的な気分がどうしても出て来る。教えるという気持ちには、やはりそれがある。そこで誓願とか菩薩とか古来からある言葉を持ち出して正当化しがちである。
善悪無し、損得無し、生死無しというところにいつまでも留まっていると、一枚悟りの噴飯者になりかねない。
大悟したところに留まっている限り、『悟り臭さは悟りにあらず』ということである。(『放下じゃく』。六祖壇経)
下手すると、わざと悟り臭さが無いことを示すために、善も悪も同じだと言って、むちゃくちゃやりだす。
ここらへん勘違いした一枚悟りの噴飯者がたまに世の中に現れる。」 |
老師 |
「はい」 |