悟る必要性

普通の人でも悟りを開かないとならないか?

一呼吸、思い出したら一呼吸PRIVACY POLICY

知性の限界の根拠 悟ると聖人になる? 悟りと脳(悟りへの方向) 大悟徹底とは何か 悟りと日常
生活の関係
普通人も悟る必要があるか
 
 このページの要約
 *** お坊さんはともかく、一般の普通の人は必ずしも悟る必要は無い。人それぞれ個性が違い、環境も違うから。興味ある人はやればよい。

  それよりも重要なことは、人それぞれ夢や希望を追う日常生活の中において、

      『一呼吸、思い出したら、一呼吸』
 
することだ。
  そうすれば、そのつど覚醒して我に返り、虚仮の世界からリアルな世界に戻る。

  そして、本来思うようにはならないはず(華厳の重々無尽縁起)のこの世の中で、学業や家事やビジネスに取り組んでいけばよい。
  それ以外無い。
  前へ前へ前進あるのみ。
  大きなことは成り行き任せ(一休)、小さなことをコツコツと。それだけだ。
  
  そのように生活していけば、
悟っていなくても悟った人と似たようなものだ。
 病気の人もベッドの上で出来る。***

禅僧でない普通の人でも悟る必要があるか

A.そもそも普通の一般人も悟りを開かないといけないのか?
 只人と古老が話しているところに、青年、老師が揃ってやって来た。
青年
老師
「みなさん何をお話で?」
只人 「丁度一段落したところだ。」
青年
老師
「どのような話しでしたか。お教え下さい。」
只人 「うーん。ここら辺で止めたいのだが、みんな揃っていることだし、ひとつ最後にもう一つ無駄話でもするか。」
青年
老師
古老
「御願いします。」
只人 「三人ともお聞きなさい。
 悟りとは、要するに、悟りの存在する方向に気づき、その方向へ歩んで行くことで大悟し、その後その大悟も解き放つ、とともに、思考フル回転の世間にも対応して行くということだ。」
古老 「そのとおりです。」
只人 「しかしながら、理法界や理事無碍法界や事事無碍法界はそう簡単には分からない。
 坊さんならともかく、普通の人に対して悟れ、悟れでは却って本人に害をもたらすかもしれん。
 機縁熟さずということもある。」
老師
古老
「そのとおりです。簡単にはいきません。」
古老 「でもそこを何とか導くのが菩提心と思いますが。
只人 「ま、そのとおりだが。
 それでもやはり、普通の人が悟らないといけないのかという問題が残る。」
古老 「・・・」
 雲のかかった山々
青年 「禅の高僧といわれる人はみんな、悟りが大事、坐禅が大事といってますが。」
只人 「それはそのとおりだが、人には皆、持って生まれた個性がそれぞれ違うし、環境も異なるから、悟る必要があるとか無いとかの議論もそもそも少し話しが違うといえる。 

 悟りに全く興味が無い人にまで義務だというとそれは行き過ぎだろう。

 人々に悟りを開かせて人類を救いたいというのも、救済欲という欲の一種だ。いくら『誓願』などと言い換えてもな。」
青年 「そうなんですか。よかった。私は悟らなくてもいいのですね?」
只人 「ま、そうかも知らんし、そうでないかも知らん。」
綠の区切り線
B.悟りとは別に、日常生活やビジネスで重要なことがある
青年 「でも、それでもあえて、私のような、禅についてよく分からないまま、日夜奮闘している普通の人にアドバイスを御願いします。」
只人 「お宅は簡単に人に御願いするお人だな。」
青年 「失礼しました。言い過ぎました。」
只人 「鍵となる大事なポイントは『呼吸』だ。」
青年 「はー? 呼吸ですか? 坐ることではないのですか。」
只人 「もともと坐禅を組むことは悟るための必須条件では無いし、ここではそもそも悟る必要は必ずしも無いとしての話しだから、坐禅はポイントでは無い。 」
只人 「そこで重要なことは、皆さん毎日色々な思いや思考や計画や判断や選択をしながら過ごしておられるだろうが、それはそれで大事なことだが、その日常を過ごしていくなかで、

 
『一呼吸、思い出したら一呼吸』することだ。」
茶器と紅葉の葉

 

只人 「そうすれば、そのつど覚醒して我に返り、虚仮の世界からリアルな真実の世界に戻る。一休の真似みたいが。

 そしてまた色々考えながら、日常生活を過ごしていく。 

 
そのようにして生活していけば、悟っていなくても悟った人と似たようなものだ。

 未だ悟らずの人でも、根拠や理屈は分からなくても、日常生活で一呼吸することによって、思考全開の虚仮の世界から、この憎愛無く、善悪無く、勝ち負けのないリアルな世界(今ここ)の覚醒した世界へ、
時々戻るならば、それで良いということになる。

 一呼吸したその状態が真実のリアルな世界であり、他は虚仮の世界であることが分からないままでかまわない。
 そんな単純なものなのかと思うむきもあろうかとは思うが、これが本当だ。(白隠『衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ〈坐禅和讃〉』)。」

 逆に、
たとえ大悟した人や大悟徹底した人であっても、思考をフル回転させなければならない世間の活動に気を取られて、今ここの世界や、自在な境涯を置いてきぼりにしていると、変なことになる。
 ましてや、見跡~得牛等々に止まっている人たちは簡単に元の木阿弥になってしまう。
 自由な境涯を得た人が変なことになるなどとはおかしい、偽の大悟徹底だからだという反論が大きく聞こえて来そうだが、そう感じるのは、大悟徹底した人なら神々しい人物に成り切ってしまっているはずであり、そんな凡人の悩みを背負うことになるはずがないという風に、諸々の仏典のあれやこれやの記述内容の権威に幻惑されて、思い込んでいるからである(『知性の限界の根拠悟ると聖人になるのか』の各ページに説明している)。
 大悟徹底したはずの一休が53歳のとき、自殺未遂をしている。この事実は重い。

 『 無門関第三十八則[牛過窓櫺]
  頌に曰く 過ぎ去れば穴に堕ち、回り来れば却って壊らる。者些の尾巴子 奇怪なり。』 

 このような意味では、人生これで完成ということは無い。釈迦も達磨も一休もだ。勿論あんたも私もだ。
 」

青年 「えー全く信じられません。
 それに一呼吸って、なにか念仏みたいですが。」
只人 「念仏? 浄土宗・浄土真宗のことか。今時、極楽浄土への往生を信じる人はいるのかな?(『往生要集』 恵心僧都 源信)

 ただ背景は違うにしても『南無阿弥陀仏』の名号を唱えることで、結果的には似たところはある。

 また法華経には、『唱題成仏』ということがある。
 こちらも、同様に 『南無妙法蓮華経』の題目を唱えることで、結果的には似たところはある。

 また真言密教の空海が書いた『般若心経秘鍵』において、『真言は不思議なり、勧誦すれば無明を除く。一字に千理を含み、即心に法如を証す。』とある。例えば、『阿』字という一字である。この一字を唱えることで、結果的に似たところはあるといえる。

 ただし、重要なことは、『南無阿弥陀仏』や『南無妙法蓮華経』や『阿字』に、特別の宗教的意味があると思い込むと全く違った結果になる。
 やっかいなことに、名号や題目は宗教的権威があるので皆さん実行しやすいので、それでもいいかともいいたくもなるが、その権威にのめり込んでしまうと、酷いことにもなる。

 あるいは、それらを、何度も連続して唱えることで一種のトランス(恍惚)状態となり、それが真実の世界だと勘違いする人々も大勢いる。それも全くの的外れである。

 あくまで、念仏や題目や真言はこれまで述べたように、覚醒させるための手段に過ぎないことを外してはならない。

 思考や念を一時的に切り、覚醒させる作用・機能さえあれば、『南無』でも『無』でも『ムー』でも『アー』でも『イー』でもなんでもよい。

 思うに、一番良いのは、なんらかの宗教的権威や意味合いの入る余地のない、『一呼吸』だ。 これを勧める所以である。

青年 「日常生活といえば、法華経だったか、『一切世間の治生産業は皆実相と相い違背せず』という話を聞いたことがありますが(『法華経法師品第十九』)。」
只人 「法華経だろう。
 ま、宗派の法華経解釈とはまたちがうだろうが、命、健康、食欲、性欲、出世欲、知識欲、悟りたい欲、名誉欲、物欲、善人欲、家族欲、布教欲、救済欲、ボランティア欲などの八万四千の欲は皆実相(仏法)と違背しない。全て肯定していい。」
青年 「それなら、普通の人と変わりがないじゃないですか?」
只人 「ああ。ただし、ああしたい、こうなって欲しいと思っても、

 本来、
この世界は思うとおりにはならないことになっている。

 
この世は華厳経でいうように、個々の事物が相互に関係しあい、瞬時に変化しながら無限に重なりあっているので(重々無尽法界縁起)、その一部でしかない自分の思いどうりに世の中がいくことはない。

 自分の体や相手の心など思う通りにならないのが本来の姿である。相手には相手の都合がある。ここを十分噛み締める必要がある。

 その上で、各自の夢や願いを追うことになる。うまく行った場合は文字通り有り難いということだ。

 そして、大悟徹底しても
肉体は消滅しない以上、そこからくる自己保存本能も働く。そのため、自己保存を脅かす他人の嫌な言動に対して、不快に感じまた苦しむ。
 しかし、上に述べたように、自己は宇宙の一歯車に過ぎない。相手もまた自己保存本能で動く。
 したがって、自己保存本能のまま言動すると(自利)、苦しは増すばかりとなる。
 そこで、
生きる苦しみを和らげたいのなら、他人に対して、愛を持つことで中和するしかない(利他)
 これも処世術といえばそうだが。

 もっとも、こういうことはこれまで多くの人が言っている常識的な人生論だが、人間の自己保存本能という遺伝子の作用は人間の根幹であるから、その面から言えば、結論は、自利利他ということになる。」

青年 「そうです。知っています。大事なことですね。」
只人 「ああ。ただ、そのためにも、

 
『一呼吸、思い出したら一呼吸』だ。

 ヨガの呼吸法などむつかしそうだが、そういうものではなく、
 吐く息、吸う息を区別したり、横隔膜をどうするこうするなどという難しい呼吸方法は気にしなくてよい。
 ただ、一呼吸、また、一呼吸すればよい。

 そしてまた前へ前へ。
 過去は一秒前の出来事でも塵一つ変えられない。

 雨の日も晴れの日も、倒れる秋が来るまで、前進あるのみだ。
 {『毒語心経』 白隠禅師
 徳雲の閒古錐幾たびか妙峰頂を下る。
 他の痴聖人を傭って雪を擔って共に井を塡む } 
 
 大きなことは成り行き任せ(一休)、小さなことをコツコツと。
 それしかない。
  
スミレの花
只人 「ま、にわかには信じられないだろう。

 だから無理にとは言わん。

 年がら年中、思い出す度に一呼吸が良いのだが、
 それでもいつの日か、追い詰められ、息があがり喘ぐ時などには、以前、只の人が変なことを言っていたなと思い出し、騙されたと思って実行してみるといい。

 病人でもベッドの上で出来る。 」
只人 「そして皆さん私も含めてそのときが来ればさようならで人生終わることになる。」
青年
老師
古老
「恐れ入ります」。
只人 「恐れ入らなくてイイ。私の人生ではない。そちらの人生だから。

 では終わり。 」

                                    
区切り線
 区切りの線 人々
区切り線

 
最後に筆者から一言。

 以上説明したことで、色々なステージにいる人々への最終回答になっていると確信します。
 このサイトは風穴和尚の「一塵を起こせ」に触発されて作成公開しております。
 というわけでこのサイトは、一塵ということになってしまった(笑)。

 なお、本サイトへの疑問などもあるかとは思いますが、言葉のやり取りでは結局のところ本文で説明したことの繰り返しになるので、現在のところ閲覧者の方とのやり取りは行っておりません(ブログなどは作っていない)。

 菩提心に乏しい筆者。魔道に落ちること必定!(笑)

 


 桜


<筆者のプロフィール>
 プロフィールについては、それによって本サイトの内容の信頼性が左右されてしまうことは本意ではありませんので記載しておりません。
 肩書や履歴でその人の言うことの真偽を判断することは普通の世間では構わないのですが、こと悟りの話となると間違いの元です。
 このサイトを読まれた方は大丈夫だとは思いますが。
 それでもまあ、年配の男性とだけ申し上げておきます。

 
内容が全てです。


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花は紅柳は綠 呼吸
一呼吸、思い出したら一呼吸