知性の限界の根拠 | 悟ると聖人になる? | 悟りと脳(悟りへの方向) | 大悟徹底とは何か | 悟りと日常生活の関係 | 普通人も悟る必要があるか |
ページの要約 *** 前のページで、仏典などの内容解釈には本質的に限界があると説明したが、それでもなお、仏典などにはそのような理屈を超えるほどの「伝統的権威」というやっかいなものがある。それらの権威は、人々に謙虚さをもたらす良い面があるが、同時に人々を狂信的にさせる恐ろしさもある。 さらに、勘違いしがちなことだが、悟りを開けば、聖人になるとか、超能力が身に付くとか、病気が治るとか、苦しみが全て無くなるとか思いがちである。そういうことではないのだ。 しかし、多くの人々を惹き付けるために、そのような現世利益を宣伝する人々が結構いる。善意、悪意にかかわらず、だまし・だまされは宗教業界でも存在する。 悟りを開いて人生の逆転満塁ホームランを打つことを期待しているのならやめた方がよい。 先に述べたように、悟り自体を言葉や理屈で直接説明することは不可能だが、その悟りが存在する方向については示すことは可能である。次の悟りと脳との関係のページで詳しく解説する。*** |
A.仏典などの権威に盲目的になってはならない | |
青年 | 「悟りを言葉や理屈で説明出来ないことは一応理解できましたが、そうであっても不立文字とはいえ、仏典批判はすこし言い過ぎではありませんか?」 |
老師 | 「ま、こんなこと言うと、たいていの人は、長い間多くの人に支持されてきた権威ある仏典等を読んでもだめと言うのはのはけしからんという気持ちになる。 人は権威に弱いから無理もないが。この権威というのがやっかいだ。 経典や仏像や聖書や十字架などに対して畏敬の念や神々しい気持ちを抱くことは、それなりに人々に良い影響をもつ面がある、例えば謙虚な気持ちを持たせるといったことも事実だから、一概にそれらを否定は出来ない。 しかし、解釈の限界やいいかげんさは恐ろしいもので、下手すると狂信的になって、我が信仰に正義有り、逆らう者は敵として殺してもよいという信念を生み出すこともある。古今東西、どこにでもあるのでやっかいだ。オーム真理教などそれだ。 ただ、私はここで、仏典などに書かれた言葉や図形の権威を否定するように言っているが、にもかかわらず私の説明ではあちらこちらでその権威を利用しているところもあるので、矛盾しているという指摘もあるだろう。 まあ、未だ十分理解が深まっていない普通の人にとっては、仏典や聖書を批判するなんてどこの馬の骨が言うのか、そんな奴の言うことなど聞くもんかということもあるので、仕方無い。利用させてもらっている。ややこしいところだ。」 |
青年 | 「はー。」 |
老師 | 「そこで、その権威を利用させてもらうと、 ある古仏は、『碧巌録とか正法眼蔵など書かれなかった方が良かった』とさえ言っている(加藤耕山『坐禅に生きた古仏耕山―加藤耕山老師随聞記』)。 また、ある古老は 『世間の多くの人は投網(知識や言葉)で魚を捕らえている(魚は捕れても水は不可能)』と言っている(山本玄峰『無門関提唱』)。 また、臨済禅師は、『三乗十二分教も、皆な是れ不浄を拭う故紙(便所紙)なり』と述べている(『臨済録 示衆』)。」 |
青年 | 「臨済ほどの人がそう言っているなら、そうなんでしょうね。」 |
老師 | 「いずれにしても、権威を否定するも肯定するも関係無いことであって、言葉や図形は本質的にいい加減であることに早く気づくことが大事だ。 読書百遍意自ずから通ずとはならない。」 |
青年 | 「そうですか。権威に惑わされて仏典などの言葉や図形をいくら追いかけて解釈してもここのところは分からないということは頭では理解できました。」 |
老師 | 「そこで、ある禅僧は、何を聞かれても指を立てるだけとか、喝と怒鳴るだけとか、箒で叩くだけとかした(『無門関第3則倶胝和尚』 )。」 |
青年 | 「そうなんですか? そのやり方もなんだかなーという感じですが。」 |
老師 | 「科学の発達した現代ではそのやり方に付いてこられる人は少ないだろうな。 残念ながら。」 |
青年 | 「そう思います」 |
老師 | 「そこで、先ほど無理じゃ、帰りなさいと言ったのだ。」 |
青年 | 「はー・・・。 どうも手の付けようが無いみたいな・・・。」 |
老師 | 「そうだ。ここのところは手の付けようが無い。」 |
青年 | 「しかしそれでも何とかならないのでしょうか?」 |
B.悟りを開くと聖人君主やスーパーマンになれるか? | |
老師 | 「うん、それではなんとか話しを続けよう。 ところで話をする前に言って置きたいことがある。」 |
青年 | 「なんでしょうか」 |
老師 | 「悟りとは何かとか、本来の自分の姿とか、この世の真実の姿が分かると、聖人君子になるとか、超能力が身につくとか、病気が治るとか、出世するとか、金持ちになるとか、苦悩から一切解放されるとかそういうことを期待しているのか?」 |
青年 | 「出世するとかは考えておりませんが、なにか悟りといいますか、そういうことを体得すれば自然に聖人になるような気がしてますが。多くの人はそう言いますが。」 |
老師 | 「聖人君子になりたいのなら、私の話は聞く必要はない。教育塾など他所へ行くがよい。それは道徳の世界だ。 超能力が欲しければ忍者養成学校にでも行くことだ。 悟りを開けば無我になるから苦しみを受ける主体が無くなり、苦しみも無くなるはずだなどと机上の理屈からそれを期待しても無駄だ。悩みが消えて毎日が楽ちんとはならない。 悟りを開くことと、俗から聖へ、損から得へ、苦しみから楽へ、濁から清へ、不健康から健康へ変わることとは、全く別次元の事柄だ。 悟りを開けば、人生の逆転満塁ホームランを打てると期待しているのなら止めた方がよい。 白隠が大悟した後(越後の英巌寺)、心身不調になって内観の法や軟蘇の法などによって切り抜けたことは有名だし、一休が晩年、弟子の不詳事を受けて自殺を試みていることもあるのだ。 例えば、悟った人でも肉体を持ち食事をし、排泄をしながら毎日生活していく。悟りを開いた翌日から霞を食って生きていけるようになる分けでは無い。釈迦も達磨も一休も例外は無い。やはり食物を得なければならない。 また、苦しみがあっても苦とは受け取らず生きていくといった立派な人生態度は、程度の差こそあれ、悟りを開いていない人の中にも一杯いる。 |
青年 | 「はい、有名無名を問わず、老若男女を問わず、結構いますね。その人々がみな悟っている分けではないですね。」 |
老師 | 「また、悟ったと主張する人の中には、大勢の人に拝まれている人がいる。 インターネットサイトにもそういう風景がアップロードされている。 しかしよくよくその人を観察してみなさい。欲が消えていないことに気づくだろう。無我、無私といっても「私(我)」は消えていない。 「私」の腹がすいたからといって他人に食べてもらっても「私」の腹は全然満たされない。従ってその人は、他人でなくこの「私」が食べないといけないと主張せざる得ない。でないとその「私」は飢え死にするから。現実、釈迦も達磨も一休も飢え死にはしていない。 悟りを開いてもそういう意味では自分(自己、エゴ、主体)が消滅する分けではない。後から詳しく説明するが『一定不変の自分』というものが消滅するのだ。 一休や仙高ヘ臨終の際、『死にとうない(死にたくない)』と言ったと伝えられている。生死を解脱している人なら『死ぬのもまた一興』、『そよ風の気分』等と言ってもおかしくない。 実際仙高ェそう言ったとき、周囲は止めて下さいと慌てた。 悟ったといっても生存欲が全く無くなってしまう分けでは無い。正直な言葉だ。悟了同未悟とも言われている。 有余涅槃ということもある。」 |
老師 | 「無我、無私といった言葉があらゆる経典やインターネットサイトで飛び交うので勘違いしている場合が極めて多い。 赤ん坊のようになれば無我かというと、赤ん坊は腹減った-と泣きわめく。どこが無我か? いわば家族に英雄無しということわざもある(『驢鞍橋』鈴木正三)。 そこを突っ込まれると煩悩即菩提じゃ等とかわすが、良い意味でも悪い意味でも欲だ。 正直な人は自利利他といって、自利を認めている。 従って、貴方が拝む程の偉い人はこの世界に居ない。 |
青年 | 「うーん。悟りに期待していましたが。」 |
老師 | 「まあ、色々な書物やインターネットには様々なことが書かれている。光が見えたとか、宇宙自体になったとか、宇宙と一体になった結果、全人類が愛おしくなったとか、自分が空中に分解したとか、色々書かれている。 また、動画サイトには偉い人に対して多くの人が手を合わせて拝んでいる動画が沢山アップロードされている。 言葉とは本当に便利なもので、仏教だけでも釈迦の弟子の又弟子の又弟子の・・・・・・・と、様々な人が様々なことを書き示している。 ひいきのひいき倒しというか、尾ひれ胸びれと色々神々しい垢がこびり付き、何百年と過ぎてきて、未だに真実のお言葉はああだこうだと言われ続けている。 まるで悟りを開くと空気だけで生きていける仙人みたいになれると主張する教祖さえ出てくるしまつ。 この世の中では、人々を惹き付けるために、飴とムチを使うということがある。 飴としては、例えば、悟りを開けば、病気が治る、商売が繁盛する、人から好かれる、出世もかなう、恋人も獲得出来る等、現世利益を盛んに強調する。 他方、ムチとして、仏の道に反したことをしていると、先祖の祟りがあるとか、守護霊をお粗末にしていると、癌などの不幸が取り憑くぞ、とか脅す。 甘い言葉に気を付けろとは、詐欺の世界だけでは無いのだ。宗教界にも横行している。目に余るとさえ言える。 用心すべし。 」 |
青年 | 「はーそうですか。 でも、拝むべき人など無いとはいっても、何百年と長く多くの人々に尊敬された人々は別ではないでしょうか?」 |
老師 | 「臨済は、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せと述べている。また、仏を将って究竟とすること莫れ。我れ見るに、猶お厠孔の如しと述べている。仏は便所の穴みたいなものとさえ言っている。 さらに、菩薩・羅漢は尽く是れ伽鎖、人を縛する底の物なりとも言っている(『臨済録 示衆』)。 要するに権威に幻惑されるなということだ。 繰り返すが、この世には、偉い人は沢山いるが、拝む程の偉い人はいないということだ。」 |
老師 | 「まー、そういう権威に圧倒されているあんたの気持ちは分からんでも無い。 あんた自身が未だ分かっていない以上そういう気持ちを持つことになる。」 |
青年 | 「ええ、正直な気持ちなんです。それでも教えて欲しいのですが。」 |
老師 | 「うーん。それでも、悟りたいか?何にもならないかも知れんぞ。無功徳だ。」 |
青年 | 「すこし戸惑いますが。」 |
老師 | 「帰るのなら今だ。念力など手に入らないぞ。無功徳だ。」 |
青年 | 「無功徳ですか・・・いえ御願いします。」 |
老師 | 「まあ、悟りを開くと、長い間分からなかった謎めいた状態が、突如解決した状態に転じるのだから、そのときの喜び、開放感、驚きはそれはものすごいものがあることは確かだが(手の舞い足の踏む所を知らず)。 大統領もノーベル賞受賞者なども含めて殆ど大多数の人々が我が身のことであるにもかかわらず、気づいていないことが分かったのだから、その優越感もものすごいものがある(優越感というと言い過ぎかも知れないが、ここから一枚悟りの思い上がりも出てくる)。 一枚の薄い紙の中に、大きな山も川も貴方も私も存在しているという不思議な謎も解ける。 |
青年 | 「御願いします。」 |
C.悟りが存在する方向性については、言葉・論理で示すことは可能である。 |
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老師 | 「うーん。あんた熱心だな。それならひとつ、この世界の真実の姿や本来の自分の姿や悟りとは何かが分かる「方向」ぐらいは言葉や図形で示すことが出来ると思う。どうかな?」 |
青年 | 「是非、方向だけでもお示し願います」 |
老師 | 「それでは、この限界ある言葉を使って、悟りとは何か、そしてこの世の真実の姿や本来の自分の姿が存在する方向を示すことにしよう。 次の悟りと脳との関係のページで詳しく解説する。 」 |
老師 | 「ただし、方向を説明する際に用いる色々な言葉や理屈にあまり拘泥しないように。それらの言葉や理屈は、方向を示す指に過ぎなく、本体はその先の月だから、指を分析しても仕方が無いといえる。 もっともこのような言い方は、禅関係やスピリチュアル関係ではよく耳にするが、偽者にとってはごまかしやすく便利な言い方である。 ただ、本人自身は偽者とは気づいていない場合もあるからやっかいだ。一瞥覚醒とか、自分が消えて宇宙と一体になった感じがしたとか、笑いが止まらなかったとかいったことも脳細胞の一種の発火現象のなせることであるが、それはそれでそういうことが有ったことは事実で嘘ではないだろう。 だから偽者でも本気らしい部分も備えるのでなかなか難しいところだ。 大悟した人か未だの人かを見抜く方法としては一例として、動画でそのような人の話を見たり聞いたりする場合、その言葉の内容は耳を塞いで(言葉や論理の限界に気づいていない人はごまかされるので)、その人の発する雰囲気を感じ取ると、大悟している人か否かが分かる場合がある。 未だの人は、理屈で追い詰めているに過ぎないという様な雰囲気がどうしても漂ってしまう。 大悟している人は、本来理屈なんてどうでもいいという、確信に満ちた落ち着きがある。 あるいは、やたら愛とか慈悲とか平和とか強調する人も違う。 次のページで説明するように、悟りの庭には生死なく、憎愛無しだ(『信心銘』の『至道無難、唯嫌揀択、但無憎愛、洞然明白』)。 ただ、中には、演技力のある人も結構いるので(聖人風な格好と風貌をして、恭しくあるいは権威的に話しをするなど、インターネットの動画には何人も登場している。彼らには俳優の素質があることは間違いない。)、見抜くのも難しいといえるが、気を付けないといけない。」 |
青年 | 「はい。」 |
注)加藤耕山
明治9年1月6日愛知県生まれ。晩年夫婦で奥多摩に隠棲したが、包めば却って顕れるとのごとく、多くの人に慕われた。今様正受老人ともいわれた。96歳遷化。
注)山本玄峰
慶応2年1月28日和歌山県生まれ。静岡県三島市の龍沢寺住職 世界を行脚。著名人も多く訪れ、終戦にも関与。昭和最大の禅僧ともいわれた。「無門関提唱」 96歳遷化。
注)臨済禅師
中国 唐の時代の禅僧。臨済宗の開祖。山東省出身。
注)鈴木正三
1579年生まれ。元旗本で大阪の陣に出陣。42歳で出家。仁王禅を唱え、一宗一派に偏らず、日々の職業生活の中での信仰実践を説いた。「驢鞍橋」75歳遷化。
知性の限界の根拠 | 悟ると聖人になる? | 悟りと脳(悟りへの方向) | 大悟徹底とは何か | 悟りと日常生活の関係 | 普通人も悟る必要があるか |