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知性の限界の根拠 悟ると聖人になる? 悟りと脳(悟りへの方向) 大悟徹底とは何か 悟りと日常生活の関係 普通人も悟る必要があるか

悟りと脳との関係について(悟りの存在する方向)

 このページの要約
 *** 悟りの存在する方向については言葉や理屈で説明出来る。

     すなわち、「聞く」その働き自体が真実の自分であり、「見る」その働き自体が真実の自分である。真実の自分はころころ変わり変幻自在だ。
     その見聞きする働き自体で直に把握されるリアルな世界がこの世界の真実の姿である。そして大悟するとそれまの想像を遥かに超えたびっくりする世界を体得することになる(それが極めて身近なコトであるにもかかわらず)。

     悟りの存在する方向に進む具体的方法は、例えば目の前の部屋全体の様子を前後裁断集中しながらしっかりと見ることである。

     悟りに向かって突進するのもよいが、学業、家事、ビジネスを無視してはならず、そう簡単なことではない。お坊さんは別として、普通の人がどうしても悟らなければならないというものでは無い。人それぞれ個性がある。こだわる必要は無い。最終ページにその
最終回答がある。 ***


A.脳科学からみた悟りの正体について
老師 「言葉や理屈では悟り自体は説明出来ないが(不立文字)、悟りの存在する方向については、言葉や理屈で説明出来るので、次に説明する。

 誤解を恐れず言うと、いわゆる常識的な宗教というより、むしろ科学の発見に近いものである(手法は正反対であるとしても)。
老師 「少し一般論的になるが、この宇宙の森羅万象はそれぞれの性質・機能に応じて活動している。山、川、植物、動物などである。我々の肉体もそうである。筋肉の細胞、心臓の細胞、足の骨の細胞などである。それぞれ機能を発揮して活動している。

 脳も同じであって、脳幹細胞は血流や呼吸を司り、視覚や聴覚の感覚細胞はそれぞれ見る機能、聞く機能を発揮し、記憶細胞
は記憶機能を発揮し、前頭葉は思考をつかさどっている。

 その中で、人の主観的な意識・無意識状態の点に注目する。ま、意識という言葉や無意識という言葉は多義的な意味をもつので説明が難しい面もあるが述べてみる。

 客観的にみて、人の脳幹細胞が働いている状態では、本人は無意識である。あの赤血球を足のこの筋肉細胞へ送るといった意識は無い。
 客観的にみて、視覚等の感覚細胞が働いている状態では、本人は、見ている自体、聞いている自体の認識が現れる(意識があると言える)。
 客観的に見て、前頭葉と記憶細胞が働いている状態では、本人は、過去の記憶が蘇り、色々思い浮かべたり、明日の計画を立てたりしている(意識がある)。 」
青年 「人の意識が浮上しているかどうかの点ではそのような感じです。」
                             鉢植え
老師 「以上のことを踏まえてもう少し説明しよう。」
老師 「ある人を、別の人が脳波計などで客観的に観察するとした場合次の3つの状況が考えられる。

 a.ある人が眠っている状態では主に脳幹細胞が働いている状態といえる。
 b.ある人が見聞きしている状態では、主に、a.の他に更に感覚細胞も活性化している状態といえる。
 c.ある人が言葉を駆使して思考している状態では、a.b.の他に更に前頭葉の細胞や記憶細胞が活性化している状態といえる。

 その場合、観察されているそのある人(本人)の主観的意識は、
  a.の場合は、無意識状態である。
  b.の場合は、本人は見聞きしている(意識状態)。
  c.の場合は、本人は思考している(意識状態)。
 ということになる。
 ちなみに夢を見ている状態では、a.の脳幹細胞が活動していることは勿論であるが、前頭葉の細胞や記憶細胞も弱いものであるが活性化している反面、b.の感覚細胞は不活性状態にある特異な状態である。
 そこに雷など大きな音がして目覚めると、眠りから覚め日常状態となる(c.の状態となる)。

  
青年 「細かい部分は別として概ねそのとおりだと思います。」
脳
老師 「そのことを前提に、今、本人が本来の自分やこの世界の真実の姿を把握したいと試みる場合、

   c.の思考で把握する方法においては、その内容(過ぎ去った過去の世界か、未だ来ていない未来の世界)は、前頭葉細胞による思考の産物に過ぎず、虚仮の世界である。

   b.の見聞きの働き自体の感覚で把握する方法においては、これはc.の虚仮の世界に比べて確かな実感(見えている、聞こえている、痛いと感じている)がある。
 (ただし、それは感覚細胞の働きに過ぎないともいえ、今見ている景色も痛いという感覚の世界も、見る対象や感じる対象の世界を正確に把握している保証は無い。錯視などの現象がある。)

   a.の無意識の方法においては、本来の自分や世界の真実の姿の把握は全く無理である。

   つまり、a,b,cともに、結局不可知ということになる。不可知論というのが昔からあるが。」
青年 「無神論ということですか?」
老師 「いや、人には本来の自分や世界の真実の姿を把握は出来ないというぐらいの意味だ。」
青年 「がっかりですが・・・。」
スズラン
老師 「がっかりしているようだが、そもそもあんたが求める真実の姿って何を想定しているのか?

 何か固定した形や模様や色や、あるいは数式を期待しているのか? 」
青年 「そういわれればそのーー。まーそんなところかも知れません。」
老師 「先ほど言ったように、もし森羅万象が瞬時に変化しているのが真実だとすると、そもそもそんな一定不変の姿などあるはずがないことになるが。」
青年 「そうですね。 一体私が求める本来の自分や世界の真実の姿って何でしょうか。分からなくなってきました。」
老師 「しかし、そうは言ってもそれでも何かあると感じて何かを求めているだろ、あんたは。それは何かな?

 上述したc.の思考では、過去の世界と未来の世界は虚仮であることになるが、その思考のぎりぎりの結果は、この世界は、現在の一瞬という薄い紙切れの中に存在するということになる。

 それは、本当か?あの大きな山や川が紙切れ一枚の中に存在するって?

 火山が噴火し、津波が押し寄せるこの現実も紙切れ一枚の中での出来事か? 不安であり、奇妙であり、嘘っぽいということになるが。

 この現在の一瞬とはどういうことなんだという疑問は晴れないだろう?」
青年 「そうなんです。あまり言われると不安になりますが、どういう存在なんでしょうか?」 
大地と空
老師 「その存在が明確に分かるためにはその存在を分からなくさせている原因を取り除いてみることが重要となる。
 そして、その現在の一瞬という世界の正体がよく分からない原因は、思考の産物である虚仮の世界が霧を発生させて見えなくしていることにある。

 そこで、c.の思考を一時停止してみることがよさそうということになる。そして、b.の感覚は残すのである。

 なお先ほど言ったように、その感覚は錯視などがあり嘘をつかれる。しかし、それは対象との関係で嘘というだけであって、その感覚自体の働きは真実であり実感である。手で自分の膝を叩けば痛いと感じる。その存在感は確かにある。リアルな真実の世界と言っていい。

 そして、虚仮である思考を停止した状態においても、見る聞く自体の感覚が確かに存在する。
 そこには我思う我有りの自分は無く、ただその働きだけを実感することになる。膝を叩けば痛いという感覚、机を叩けばドンという音が聞こえる感覚が実際にある。(今自分は山を見たなと感じた時点ではもう思考・記憶の世界に移っており、見る作用自体では無くなっていることに注意が必要)

 その「聞く」というその働き自体が真実の自分であり、「見る」というその働き自体が真実の自分である。
 
(臨済録の上堂3、『赤肉団上に一無位の真人有って、常に汝等諸人の面門より出入りす。未だ証拠せざる者は看よ看よ』 赤肉団とは肉体を意味する。)

 真実の自分はころころ変わり変幻自在だ。

 そしてその見聞きする働き自体で直に把握されるリアルな世界がこの世界の真実の姿である。
    」

青年 「ドキドキしてきました。」
ひまわり
老師 「もちろん、上述したように、その見聞きする働きが生じたと認識(意識)する働きは、その見聞きした直後の別の働き(思考・記憶作用)だ。見ている最中、聞いている最中はそれだけであって、その認識はもちろん無い。あるがままである。
 あえていえば見た後、聞いた後に記憶細胞のその記憶の励起によってそう認識(思考・意識)したといえる。いま家が見えていたな、とかである。
 そしてその思考している時は、またそれはそれで、その思考の働き自体も、真実の自分であるともいえる。
 ただし、その思考での働きは、その思考によって一定不変の自分を創り出すので、一定不変の自分が存在するという頑固な誤解を生じる根本的原因になっている。だからあまり触れないでおく。

 なお、色々選択し決断する
能動的な意思(意志)も、前頭葉の細胞や記憶細胞の相互作用から生まれる創発現象である。自由意志である。
 例えば、庭の桜の木だけを見ようという意思(意志)があれば、見る働きそれ自体もそれに応じて桜の木だけに意識が集中し、横にある草木は見えなくなる。そしてその桜の木だけが見えてる状態は勿論見る作用自体である。
 この意思(意志)という現象は人間が最も発達している。
 動物は、あれかこれかであまり悩まないが、人間は深刻に悩む存在である。
 それも勿論、真実の自分には違いないが、一定不変の自分を作り出すので、あまり触れないでおく。

 ま、人間は、物心つく頃から一定不変の自我を創り出し始めるので、だれでも必ず一度はこの一定不変の自分の存在を信じることになる(人はだれでも、一度は真実の自分を離れることになっている。無門関第三十五則『倩女離魂』。この公案は更にもっと高度な意味も持つけれども)。」
青年 「前頭葉の活動が色々問題を引き起こすようですね。」
電卓とお金
老師 「さらに、その見聞きする働きとその対象とは物理的に繋がっている

 従って一如であり、自分と宇宙とは一体であるということになる。

 悟りを開くと宇宙と一体になったといったことが言われるが、それはそういうことであり、またそれ以上のことではない。

 中には、自分があたかも物理的に拡大し宇宙そのものになってしまったという人が居るがそれは嘘だ。見る感覚自体や聞く感覚自体にそういう感覚は無い。例えば茶碗を見ている状況では、見る対象の茶碗も見る自分も無く、唯見るだけという感覚だ。それを一体感覚と呼んでいるのだ。
 そういうことを書いている文献で読んで、未だ悟っていない人がワンネスとかノンデュアリティといった概念でそのように理解して色々発言していることがある。間違いだ。

 世界で名高い覚醒者と呼ばれる人達も殆どが、この宇宙的意識を取り上げているが、そういう感覚だけなら、音楽でも踊りでも薬でもトランス状態で味わうことが出来る。脳内細胞の発火が起こっているだけだ。
 誤解を招く表現なので宇宙一体の意識などと言うべきでない。

 一如であっても、自分と相手が同じになって、貴方は私、私は貴方といった風になる分けでは無く、区別が無くなる分けでは無い。見えているのは茶碗であって花瓶では無い(勿論、言葉による区別では無い)。花は紅柳は綠だ。『無分別の分別』といった難しい表現もある(日本的霊性鈴木大拙)。
 (この点は、後に述べるように大悟しただけでは本当には分からず、大悟徹底しないと分からないことだが。 だから難しいし、まがい物がまかり通る原因にもなる。) 
 
区切り線
老師 「或いは、悟りを開いてみると人類愛に満ちあふれ涙が止まらなかったなどと言う人もいる。
 この宇宙は一体であって、一つの意識なのだから人類みな兄弟という気持ちがあふれ出したといった具合に。机上の理屈まる出しだ。偽者のリトマス試験紙である。

 本来その見聞きする働き自体には、憎愛は無しだ(『信心銘』の『至道無難、唯嫌揀択、但無憎愛、洞然明白』。)

 本当の自分には美醜も残酷も慈悲も無しだ。慈悲まで無いとはけしからんという声が聞こえてきそうだが、慈悲や愛は知性(記憶)の働きがあってこそである。

 相手の窮状を知ることで助けようという気持ちにもなる。知らなければ慈悲や愛の心は全く起こらない。ま、知っても慈悲や愛の気持ちが起こらない人も勿論いるが。
 自分の子供への愛情でさえ、子供を産んだ際、看護士さんから教えてもらわないと我が子かどうか分からない。自分の子供だと知っているからこそ格別の愛情も湧く。
 慈悲や愛は知性の働きがあってこそである。一如から直ちに出てくるものでは無く、知性の働きの結果である。
 記憶や思考力が乏しくなった認知症の人に、慈悲や愛を求めても無理というものだ。勿論、認知症の人でも子供や孫についての記憶能力が働く限りでは慈悲も愛もありうるが。
 なお、完全な認知症の人でも、見聞する力が残っている限り、真実の自分は働き、意識は作用している。」
人々
青年 「それはそうと一つ前から気になることがあるのですが、一定不変の自分は無いとすると、輪廻転生という話しが古来からありますが、あれは本当でしょうか?」
老師 「間違いだ。
 よく言われることだが、現世で自分が辛い思いをするのは、前世で自分が悪いことをしたことの因果だと。その場合、前世での自分と現世での自分は同一であることが前提となっている。

 しかし、そもそも現世の自分とはどの自分か? 前にも説明したように、厳密に観察してみると、森羅万象全ては瞬時に変化している以上、現世の自分は刻一刻変化しているだろう。今花瓶を見たとおもえば鐘の音を聞く。

 真実の自分は千変万化している。だから数え切れないほど自分が居るともいえる。

 また、前世での自分とはどの時点の自分かな? どの自分とどの自分が同一なのか?

 一定不変の自分など存在しない以上、自分の過去世とか来世への輪廻転生といっても意味がとおらない。輪廻転生する自分なんてあるもんじゃない。

 前世での悪行が因果で現世で苦労するなんてはったりに惑わされてはならない。
氷の上のペンギン
青年 「もうひとつ、霊魂や魂は存在しないのですか?」
老師 「霊魂や魂(アートマン)の存在も、一定不変の自分がどうしても存在して欲しいという人類の願いがそのような言葉・概念を生み出しているともいえる。

 お盆の行事などは素朴なイベントで私も好きだからあえて否定するのもどうかなと思うが、霊の呪いとか先祖の魂の祟りだなどと騒ぎ出すとなると、ちょっと待て、霊魂や魂はそもそも無いと告げざるをえなくなる。

 あるいは、肉体は乗り物で魂は乗り手であって、死んでも肉体を乗り換えて行くだけだといった話しもそのようなもんだ。人類がそうあって欲しいという願いが創り出したおとぎ話しだ。
塔のシルエット
老師 「そもそも、嘘の方が心地よく、本当の方が苦痛を感じる場合、人間は嘘の方に傾斜していく。
 嘘でも幸せならそれはそれでいいともいえるが、やがては嘘だから困ったことも起こるからやっかいだ。

 本当に人間の想像力はとことん際限なしだ。この世で最も美しいモノは人の想像した内容、この世で最も醜いモノも人の想像した内容である。

 人間の想像力は最も良きヒトも創り出す。「菩薩」という概念もその一つだ。」
青年 「わかりました。
 また、無我とかいうことも、自分が物理的にリアルな世界で全く存在しないということではなく、また全宇宙=自分ということでもなく、一定不変の自分は無いが、この肉体を通して見聞きする働き自体が真の自分ということで千変万化するのですね。
 
 それからどうなりますか?」
 区切り線
 B.悟りが存在する方向へ突き進むには具体的にどうすればよいか?
老師 「言葉・思考・知性で悟りの存在する方向を示すとすると、これがぎりぎりである。

 重要な点は、上記c.の思考は放っておき、b.の感覚に集中することである。無感覚になるのではなく、聞く働き、見る働きは活かしながらも、それにつれて生じてくる色々な念・思考は相手にしないという方向である。
 なお、見る、聞くという感覚さえも無理矢理無くせばそれは無意識状態に陥っているといえるが、それで悟れるなら毎日睡眠中に悟っている。

 そのようにしていけば機縁が熟して、思考という霧に邪魔されて実感出来なかったリアルな世界や本当の自分を実感出来る瞬間がやってくる(頓悟)。
青年 「そこなんです。その瞬間って、始めてからどのくらい期間が経てばやってくるのでしょうか? 熱心さにもよると思いますが。 大体でもいつ頃と分かればファイトが湧きますが。」
老師 「その時期は人によって違うので、始めてから一ヶ月とか一年とか残念ながら言えない。

 日頃から、前後裁断し、浮かんでくる念や思いを相手にせず、今ここに集中することだ。

 さらに、その集中の仕方について説明すると、一番いいのは、視覚を利用することだ。
 というのは、この家や道路や山や川といった立体空間が存在し自分はその中に存在するという極めて常識的でしつこい虚仮の感覚を作り出しているのは主に視覚の記憶だからだ。

 そこでこの見るという感覚の中で、その霧に紛らわされなくなるための前後裁断、集中をすれば、ここへ到達しやすい。

 あんたが居る目前の風景や部屋の様子を全体的に見ることに集中することだ。見るだけでよい。
 細部にフォーカスしていくと返って思考や念が生じてきやすい。全体をクリアにしっかり見るのがお勧めだ。ボーとみていると眠くなるのでだめだ。

 その見方は普通でよい。
 『観察』とか、『観照』とか、『認識』とか、『止観』とか、『自我が消える』とか、『認識を破壊』とか、『ヴイパッサナー』などなど難しいことは全く気にする必要はない。
 また、主体とか客体とかいう概念も要らんことである。
 むしろ、下手にそれらの言葉を信じて自分の心理状態をあれかこれかといじくると、精神状態に変調を来たしかねない。
 それらの意味深長な言葉や概念に振り回されてはならない。

 ただ見るだけでよい。次々起こってくる念や思いなど
追いかけなければ、いくら生じてもかまわない。生きている証拠だ。
 ただひたすら、このリアルな生の現実を見失うことが無ければよい。続けるだけ。
 日常生活があるだろうから、目覚まし時計などで30分とか、時間を決めて行うと安心だ。ひっくり返ってもいいように寝室などで行うのがよい。
 お坊さんなどプロなら動中の工夫を勧めるが、在家にはお勧めしない。

 また、今ここに集中と言っても、音楽や映画やテレビや囲碁などに集中することは駄目である。
 いわゆる音楽や踊りや薬でトランス状態に導き、宇宙と一体になった感覚を一時的に味あわせて(いわゆる一瞥覚醒的なもの)、それじゃそれじゃなどというやり方は論外である。
 ただ集中が大事だということなら、セックスが一番よいことになる。無我夢中になれるから。でも人類は長い間セックスをして来ているが一向に悟りを開いた人は増えない。
 坐禅は、もっとも集中にづらく、思考や念が暴れやすい状態であって、そのような状態においてこそ、思考や念を放下することに意味があり、悟りへのポイントとなる。

***
 本当に大悟した境地は、単に宇宙と一体となったエモーショナル・情緒的な感覚を遙かに超える異質のものだ。
 長い間探し求めていたモノが今ここにあるという、紛れもない最終到達感がある。それは頭脳による想像では到底不可能である。残念ながら本人だけが分かる世界である。
 信じるとか信じないとかのレベルではなく、だれがどう言おうともという確信が生じる。
 そしてそれは、周囲の事物が全て新鮮であって美しく透明感があるようになる。例えば、誤解を招きそうというか、招くことになるが、初めて降り立った外国の地の風景のような感覚である(今ここと言うにしては皮肉な感じではある)。
 その理由は、これも敢えて言えばという程度に過ぎないが、普段の日常感覚では、この道は昨日まで見た道という記憶が重なるので、フレッシュ感が無いのが一般であるのに対して、今ここということで、過去の記憶の重なり等が無いからである。
 また、孤独感も一掃される。周囲の事物と一如になっていることを体得するからである。
 諸事情で日常生活やビジネスの世界で孤立することはあっても、孤独感など生じることは一切ない。
 周囲と一如に連続しているから孤独感などありようがない。
***


 なお、座る坐禅も、足を組むことが重要という分けではない。座っていても立っていてもかまわない。

 景色や庭の全体をしっかり見ているのでよい。
 その際、意識的に呼吸を時々するのも非常によい。その呼吸は数えなくてもよい。今ここの世界をしっかり視覚的に見逃さないことが重要だ。

 盲目の人は、静かな環境において、例えば時計の音などに集中することでよい。何の音だとか考えず、聞こえてくる音に集中することだ。音楽などは駄目である。集中しやすいからである。

 また、良く勘違いすることとして、欲を無くせということがある。
 しかし、色々な欲・煩悩(自我)を無理に減らす必要は無い。
 減らせば悟りに段々近づくという主張もあるがそれは無い。餓死寸前になれば悟りに接近したことにはならない。そのまま死ぬだけである。
 預流果、一来果とか色々経典には書かれているが本当に色々な概念や言葉が古来より伝わってぐちゃぐちゃになっている。
 色々自我の欲があれば、そちらへ時間が取られるから減らせという程度の教えに過ぎないと思っとけばよい。欲というものは完全に無くなったりしないのだから。

 要するに、前後裁断し、目の前の景色を見逃さないように集中することである。
部屋の中の様子
青年 「そのような単純な感じでいいのですか?」
老師 「なんだそんなことと思うかもしれんが、実際やってみると、思いや念が次々と生じてくるのが分かる。それを相手にせず受け流し、しっかりと景色や部屋を見続けるのはそう簡単ではない。 」
青年 「はー。そこまでですか。でもどちらの方向に向かえばよいかは分かった感じがします。」
老師 「ま、そんな感じだ。方向が分かればそれは『十牛図の「見跡」』のステージに立ったといえる。
 臨済公案体系でいえば、いわゆる『理致』を突破したといえる。
青年 「はい。分かりました。」
老師 「あー、分かったところで、もう一つ注意すべき重要なことがある。
赤い区切り線
C.そもそも、普通の一般人も悟りを開かないといけないのか?
老師 「普通の人が日常生活で仕事とか学業とか家事などをしっかりやりながらその方向へ進むことはなかなか困難なことだ。

 ビジネスや試験や家事は思考をフル回転させる場面が殆どだ。思考や念を相手にしないでいよという前後裁断とは正反対だ。従って、その方向へエネルギーを傾けることはなかなか大変ということも正直ある。

 学業や家事を疎かにしては駄目だし、ビジネスをいい加減にしてはならない。思考停止は別の言い方をすれば現実逃避とも言える。

 ま、突き進める人はそれはそれで結構なことだが・・・。
 勿論お坊さんは本来の使命なのだから突き進むべきだ。
 そのための出家制度なのだから。
 特に禅僧はそれが仕事だ。葬式仏教などにかまけていてはいかん。

 しかし普通の人には難しい。従って以上のように方向は示したが、普通の人への最終回答はまた後日別の人(只人)が説明してくれる。」

 【その最終回答はこのサイトの最終ページに説明されている】
青年 「御願いします。ありがとうございました。」 


注)鈴木大拙
 明治3年10月18日生まれる。禅文化を海外へ広めた禅者。多くの英文の著書がある。96歳逝去

                  

閑話休題

 人の意識が生じる創発現象について
   要素還元主義が知られている。これは、ある現象をそれを構成する要素に分解し、その要素の振る舞いを明らかにすればその全体の現象も解明できるとする主義である。
   この要素還元主義の限界は、ある現象をそれを構成する要素に分解する際に、それらの要素同士の相互作用が抜け落ちてしまうことである。天文学などはその相互作用を切り捨てても無視出来る程度であるからかまわないが、生物のような複雑系では駄目である。

   例えば、脳細胞の細胞一つ一つを切り離して機能を調べ尽くし、その機能を再度集合しても脳全体の機能の発揮は説明出来ない。何故ならその調べるときに行う分解によって細胞同士の相互作用が抜け落ちるからである。脳細胞一つ一つの機能の和が脳全体の機能とはならない。
   つまり、創発現象が起こっているからである。ここに創発とは、『要素間の局所的な相互作用が全体に影響を与え、その全体が個々の要素に影響を与えることによって、新たな秩序が形成される現象である』(ディジタル大辞泉より)。
   人の意識が生じる現象はその典型である。要素還元主義では人の意識は解明出来ない。
 ◎意思(意志)について 
   主に人間に強く現れることであるが、見える、聞こえるといった受動的な意識ではなく、選択するという積極的な、意思(意志)が重要となって来る。この意思は自由意志とも言われる。
   ロボットとは違う点である。
   右へ行くか、左へ行くか選択する場合の意思である。この意思は思考を司る記憶の機能が大前提である。無意識状態や次の述べる条件反射状態では現れない。
   損得、善悪、美醜などを考慮して、選択する意思である。
   これも受動的な意識からさらに創発発生した、能動的な意識と言える。

 ◎
無意識に行われる条件反射的活動について
   例えば散歩をするような場合、始めて来た公園での散歩なら、どの道を曲がれば池にたどり着けるかなどと地図を思い浮かべながらながら歩いて行く。この場合、地図を思い浮かべる活動は思考であり虚仮の世界である。
   しかしながら、何度もその公園を散歩したことがある場合は、一々どの道を曲がってなど地図を思い浮かべなくても歩ける。
   このようにいわば条件反射的(無意識的)に活動する場面では、記憶細胞は活性化しているが、虚仮である思考(前頭葉)の活動には入り込んではいないので、リアルな世界から離れてはいないといえる。
   日常生活ではこのような活動が結構多いといえる。運動選手の動きなどではここのところは重要な部分を占めている。

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知性の限界の根拠 悟ると聖人になる? 悟りと脳(悟りへの方向) 大悟徹底とは何か 悟りと日常生活の関係 普通人も悟る必要があるか

 


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